帝国主義と民主主義の共生

第一幕は陸軍が勝っただけで、その後の経過は陸軍のシナリオどおりにはすすまなかった。経費増大に固執した陸軍に対する反感が急速に広がったからであった。
経費膨張と増税の負担を強いられている実業家も民衆も西園寺内閣の方針を支持し、上原陸相の辞任による内閣の崩壊を陸軍の専横と非難していた。
しかし、第一次の護憲運動をリードした政治家の一人であった犬飼毅は第一回憲政擁護大会では西園寺内閣の国防方針が無定見であると批判した。
犬飼の「東洋の平和は我が日本の双肩に掛かっている、にもかかわらず政府内部では外務、陸軍、海軍が相対立して統一的な海外発展の根本方針がない、我々は大いに海外発展をなさざるべからず。平和の発展に於いても、いつか利害の衝突あるを忘るべからず。これがために大いに陸海の軍備を要す」の大演説をした。
海外進出のためには軍備は必要であり、軍備拡張は真面目な問題であるにもかかわらず、それを政略の道具にしたことは「糾弾すべき大罪」だというのが、犬飼の論法あった。
(民主主義的な政治体制が自国の帝国主義侵略を抑制したことのほうが世界史上まれなことである)
同じリーダーの一人であった尾崎行雄はこの憲政擁護大会で次のように彼の演説をしめくくった。
「みだりに自己権勢を張らんがために卑しくも勅命を仰ぎて、国民の非難を避けんとするがごとき専恣横暴の徒に対しては、国民は一大決戦をなさざるべからず。我々の戦闘準備は、弾丸にあらず、鉄拳にあらず、道理と利剣にあり。正義の向かう天下に敵なし。この利剣を振って閥族を殲滅せざるべからず。」
道理と正義の主張は、騎馬警官による群集警官への暴力的な弾圧行為に対する、非暴力の言語による抵抗を意味している。

しかし、力による弾圧、弾丸による圧迫・強制への批判は、近隣の国々の人々に対する同様の手段による侵略行為への批判に結びつくような視野の広さもをもっていなかった。このことが、帝国主義と民主主義の共生を可能にしていた。