統帥権の独立過程

統帥権の独立過程

この統帥権が昭和時代にはいって大問題を引き起こす原因となった。
憲法55条には「国務大臣天皇を輔弼しその責に任ず」とあり、この責任については例外規定がなく、条文上は天皇統帥権も当然に大臣の輔弼が必要であり、当然統帥権も大臣から制約を受けるべきものであった。しかし、憲法制定に先立つ1978年、参謀本部条例が制定され、軍事命令はもっぱら参謀本部長が参画することになり、太政大臣の輔弼から除かれた。1885年、内閣制度が発足した年には、軍人としての経験がわずか3年ほどしかない有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)を参謀本部として、政府に対する権威を高める方策が講じられた。これに先立つ1882年には、「軍人勅論」が発布され、軍隊指揮権は天皇のみがこれを握ることが宣言され、これらの既成事実が成文憲法に反する慣習法として、統帥権の政府からの独立を成立させるにいたったのである。
しかし明治の元勲たちが活躍していた日清・日露戦争の時代は、政治家も軍の上層部も藩閥という同一階層の出身者であったから、さして問題はおこらなかったが、明治末期ごろから政党勢力が進出してくるようになると、軍部はその独自の権限を擁護しようと、統帥権の独立を強く主張しはじめた。
やがては統帥権の擁護どころか、それを超えて政治の分野にまで進出してきた。日露戦争が終わって2年後の1907年には陸海軍は、外交と財政に重大な関心をもつ「帝国国防方針」「国防に関する兵力量」等の基本方針を、政府と無関係に上奏して決定し、同じ年「軍令に関する件」という勅令を発して、軍の法令組織を政府と議会から法制的に完全に分離した。
統帥権の独立はその後次第に拡大強化され、昭和にはいると、統帥権独立の名による軍の独走はもはや抑えられなくなった。戦争も名実ともにすべて指導する大本営は軍人だけで固められ、戦争に関して政治家はまったく口をはさむことができなかった。
シナ事変当初、戦闘の進捗状況や今後の予定についても、近衛首相以下閣僚はまったくしらされていなかったので、閣議の席上、大谷国務大臣が「どの変で軍事行動はやめるのか」と杉山陸相に質問した。これに対し陸相は返事せず、米内海相が変わりに答えたところ、杉山は「こんなところで、そんなことをいっていいのか」と海相をどなりつけたという有名な話がある。岩槻泰雄「日本の責任」から

やがて軍部の国事支配が全般的となるとともに、軍部すなわち軍ないし軍事当局という超歴史的概念の性質を合わせ持つにいたったものである。