李朝の最後

現在人が過去を語る場合は、現在の立場によって、その認識は大きく変わります。とくに思想的な立場が強ければ、強い程その認識も歪められ語られることになります。

その点、下記はいちスウェーデンジャーナリストが李朝最後を目撃した体験談で、当時の様子を知ることができます。

一八七五年、両国間にふたたび緊張の空気が漂った。民間人を装った数人の日本海軍兵士が江華島付近で朝鮮の兵に殺されると、今は提督に出世したが当時は一介の船長にすぎなかった井上がこれに対する報復として兵を率いて永宗島を砲撃し、ついで江華島を襲撃して焼き払ったのである(雲揚号事件)。
 これで満足しない日本はさらに軍艦を送り、漢江をさかのぼってソウルにまで進駐、損害賠償をしないばあいには宣戦布告するといって脅した。そのころ朝鮮は戦争遂行の基盤をもたなかったので、結局損害賠償の要求に応じるしかなかった。
 こうして一八七六年二月二十七日、両国間に条約(不平等条約「朝日修好条規」、俗に江華条約)が結ばれた。朝鮮は日本に貿易をめぐる一連の権利を譲渡し、そのかわり日本は朝鮮が自主独立国であることを認めるというものであった。
 その後も日本の要求はとどまるところを知らなかった。彼らは数次にわたり強圧的に条約を締結させ、済物浦、釜山、元山などにだんだんと植民地を築いていった。また朝鮮軍隊の教官として日本人を採用するよう懲憑し、一八八二年には堀本礼造なる中尉を赴任させた。

一方、日本にたいする朝鮮人の反感は、いや増すばかりであった。彼らは自分たちの不倶戴天の敵である日本人が何を考えているかをよく知っていた。ある日、朝鮮人の一団が日本公使館を襲撃して日本人一二名を殺すという事件(日本侵略者と閏妃の圧政に反対して一八八二年起きた軍人暴動、いわゆる壬午
軍乱)が発生した。暗殺を免れた日本人はやっとのことで済物浦まで逃げおおせた。事件はすぐさま日本当局に報告され、朝鮮政府は高い代価を払わねばならなかった。遺族にたいし慰労金として五万円、日本国政府には損害賠償金として五〇万円をそれぞれ支払った。そればかりか海運、貿易にかんする利権を日本に譲り渡し、事件の首謀者を死刑にし、日本領事館を新築し、ひいては日本政府に屈辱的な謝罪表明のための代表団を派遣するなど、実に多くの恥辱を堪えしのんだ。
 つぎの年の一八八三年、日本は朝鮮全域における郵政局設置の利権を得、港湾税を大幅に下向調節し、朝鮮領海の漁労権まで獲得した。さらに二年後、日本にながく居住していたアメリカ人が朝鮮皇帝の顧問に任命された。もちろん、この顧問とともにやってきた書記官はみな日本人だった。
 いまや日本人は皇帝のすぐ近くにまで迫り、彼らの影響力は日まLに強まっていった。日本は一八八五年から一九〇五年まで、ただひとつの目的にむかって全力をふりしぼった。皇帝をわが手に収めて思いのままに料理するというのがそれである。一八六三年に即位した皇帝は、このように波瀾万丈の歳月を送ったのである。
 皇帝は数かぎりない屈辱をなめ、自らの命をつなぐためにいく度も中国や西欧の使節団のなかに身をひそめなければならなかった。恨み骨髄に徹した彼はいまや、王国が断崖絶壁に立たされたことを思い知らされた。
 労働が恥とされ、無知と乞食の多い国の非運の皇帝となった彼としては、へつらいと収奪をなりわいとする朝廷の大臣らすべてが襟章(罪人の官位と階級をとりあげ名簿から削除すること) されてしかるべき逆賊に見えたとしても、それは無理からぬことであり、正しく導かれず欺かれた彼が友を敵とまちがえて罰したことが多かったのもまた、無理からぬことであった。