太平洋戦争

 近衛公は私に向かって、「いよいよ仏印の南部に兵を送ることにしました」と告げた。私は、「船はもう出帆したんですか」と訊くと、「エエ、一昨日出帆しました」という。
「それではまだ向こうに着いていませんね。この際船を途中台湾か何処かに引戻して、そこで待機させるということは、出来ませんか」
「すでに御前会議で論議を尽くして決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」との答えであった。
「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と私がいうと、公は、
「そんな事になりますか」と、目を白黒させる。私は、
「きっと戦争になります。それだから出来るならば途中から引き返させて、台湾か何処かの港に留めておきワシントンの日米交渉を継続して、真剣に平和的解決に全力を挙げられたいものです。しかしもう日本軍がサイゴンか何処かに上陸したならば、アメリカと交渉しても無益ですから、それはお止めになったらよいでしょう。交渉を進行する意味はありません」というと、公は非常に驚いて、
「それはどうしてでしょうか。いろいろ軍部とも意見を戦わし、しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない。こちらから働きかけることをしないということで、漸く軍部を納得せしめ、話を纏めることができたのです。それはいけませんか」というから、
「それは絶対にできません。見ていて御覧なさい。一たび兵隊が仏印に行けば、次には蘭領印度(今のインドネシア)へ進入することになります。英領マレーにも侵入することになります。そうすれば問題は非常に広くなって、もう手が引けなくなります。私はそう感ずる。もし私に御相談になるということならば、絶対にお止めする外ありません」
 ジッと聞いていた近衛公は顔面やや蒼白となり、「何か外に方法がないでしょうか」という。
「それ以外に方法はありません。この際思い切って、もう一度勅許を得て兵を引き返す外に方法はありません。それはあなたの面子にかかわるか、軍隊の面子にかかわるか知らんが、もう面子だけの問題じゃありません」と、私は断言したのであった。
                                                      (幣原喜重郎「外交五十年」p203-204)

[太平洋戦争]
当時ドイツが勝つと思っていたんです。だから欧州でイギリス、オランダ、フランスは東南アジアの植民地を顧みる暇はないことをいいこととして天皇曰く「火事場泥棒」を承認したのです。これらの植民地は戦争を継続するために必要なゴム、石油などの重要な資源の産地です。そして南部仏印に侵攻して、これを根拠地として英米と戦争が突入しても、数日でマレー、ジャバの一角に上陸し、これらを攻略する積りであったのです。アメリカは南部仏印を占領するならば重大結果を招くであろうと警告を日本に対して与えていたのです。ところが天皇も東条に説得され「火事場泥棒」を承認してしまったのです。日本の日米開戦のシナリオはすべてドイツがイギリスを下せばアメリカも日本に妥協するという、非常に日本に都合のよい前提で立てられていたのです。つまり、大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。