足尾銅山

足尾銅山は、1877(明治10)年に古河市兵衛に政府から払い下げられ、古河は京都府京都市岡崎出身で明治初期三井と並ぶ豪商・小野組の番頭をしていた。小野組が倒産したあと、だれもが見捨てた廃鉱、足尾銅山を取得すると、近代的技術をとりいれ90年代には産出銅量日本一にまで発展させたが、それが足尾鉱毒事件をひきおこすことにもなった。足尾のほか10以上の鉱山を経営し、銅山王とよばれた。産銅業中心の財閥を築いた。
 足尾銅山開発により樹木は乱伐され、銅山の煙害も加わり、山は禿げ山同然となっていった。そのために、下流渡良瀬川流域には毎年のように洪水が起こるようになってしまう。銅山から流れ込む亜硝酸アンモニウムのために、魚は浮き農作物は立ち枯れるようになってしまった。家畜や人体にも鉱毒の被害が出るようになったのである。

古河財閥中枢には木村家の姻戚だけではなく、政界関係者多数を取り込んだ。

陸奥宗光の息子を古河家の養子として迎えた。1891年、田中正造帝国議会足尾鉱毒被害をに政府に質問した時、農商務大臣は陸奥宗光であり、この時に政府は古河財閥を擁護して質問には何も答えず、後日の官報で要領を得ない返答をしただけであった。

 1918年に政党内閣をつくった原敬は、陸奥宗光の秘書時代には古河合名会社副社長として処遇されたていた。1907年、内務大臣の地位にあった原敬は、谷中村民に強制的な立ち退きを命じた当事者であった。

 西郷隆盛の弟西郷従道古河財閥と姻戚関係を結んでいた。1900
年に鉱毒反対のために陳情した渡良瀬川流域住民が、利根川の渡船場川俣(現在の群馬県邑楽郡明和村)に集まった時、警官が大量検挙した。この事件によって田中正造は1901年には衆議院議員を辞職し、足尾鉱毒被害を帝国議会から帰る途中の天皇に直訴しようとし、警備の警官に取り押さえられた。この時の
治安警備の最高責任者が内務大臣西郷従道であった。(侵攻して漠江河口の砦を攻撃すべきことを指示した。この企てもフランスのそれより以上の栄光あるものにはならなかった。アメリカ人たちは、すぐれた武器によって、多数の朝鮮人を殺害することはできた。だが朝鮮人たちは、侵入者たち自身が認めているように、じつに勇厳に闘った。侵入者たちは、無意義で不必要な破壊をくり返したのち退卸したのである。