参考資料

まず第一委員会(正式には海軍国防政策委員会第一委員会)のメンバーですが、これは
高田利種軍務第一課長
石川信吾軍務第二課長
富岡定俊軍令部作戦課長
大野竹二軍令部甲部員
の四人です。
他に幹事として、柴勝男、藤井茂、小野田捨二郎がいた。
岡敬純軍務局長は、海軍国防政策委員会の委員長になっています。
第一委員会は、海軍内では軍政・軍令両機関の課長クラスでの横断組織であり、国策策定と陸軍・政府など他機関との折衝を任務とするものでした。
彼らが機密で配布した文書「現情勢下において帝国海軍の執るべき態度」によると、現情勢は和戦いずれかを決定すべき時期に来ており、決定の鍵を握るのは海軍だとし、「現情勢下において戦争(対米を含む)決意を明定し、その方針の下に諸般の準備および態度を定むる要あり」と断じ、政府・陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべしとしている。
また、以前の物的国力判断の判決(岡田菊三郎戦備課長の対英米長期戦は資源面からは無理であるという)についても、別資料や数字ありとしてこれを覆している。永野修身軍令部総長はかれらのいいなりになり強硬論を主張するようになる。

かれらと服部卓四郎等の陸軍参謀本部作戦課らの合作で、「南方政策の促進の件」が永野総長によって提案され、松岡外相の反対があったものの連絡懇談会で決定された。松岡は英米の反発を正しく予想していたが、彼自身のそれまでの詭弁、ブラフなどが祟り信用を失っており無視された。かれら第一委員会、また服部、辻政信参謀本部作戦課の連中は、完全なる確信犯であり、英米の反発必至とみていたらしい。そのうえで積極的に戦争突入するべきとの決意のもとこの策は案出されている。陸海軍上層部は例によって表向きの強硬姿勢をとっていたにすぎないし、英米の強硬な反発は無しと見ていたが、実務を仕切っていた課長クラスの陸海軍参謀には英米の反発を見越して積極的に戦争突入すべしとする政策の持ち主がおり、そういう連中が第一委員会、参謀本部作戦課に集中していた。そして、その人事を行ったのは、海軍では岡敬純であり、陸軍では、東條英機だった。


参考文献
日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 6 南方進出』(朝日新聞社)「第2編 仏印進駐と軍の南進政策」(秦郁彦著)
NHKスペシャル取材班、『日本海軍400時間の証言』(新潮社)

正しくは海事国防政策委員会第一委員会といって、海軍軍務局第一課、第二課のメンバーによって結成された組織です。
困ったことに、この時期の軍務局には対米強硬派が集まっていて、海軍内部における対米強攻策を裏で進めていました。

私も名前が上がっている以外のメンバーは知りませんが、彼らが南部仏印進出を画策して、裏でごり押ししていたのは確かです。

>近衛という人の非常に甘い対米認識を窺わせますが、海軍の第一委員会なるものも、近衛と同程度の認識しかなかったんでしょうか?

近衛がダメ政治家であるのは確かですが、南部仏印進出に積極的に反対したのは、皮肉なことに対米強硬派だった松岡外相など一部に過ぎません。松岡はヒトラー信奉者だったので、日米が対立するのは結構にしても、開戦まで至るのは望んでいなかったのでしょう。
そのほか、政府、海軍、陸軍の首脳陣は、のきなみアメリカを甘く見て、石油の全面停止などといった強攻策は無いだろうと判断していました。海軍軍令部の調査ではアメリカによる石油禁輸もありとの判断をしめしていましたが、まじめに受け取らなかったようですね。

南部仏印シンガポールを航空攻撃の傘下に収める戦略上の要衝で、どうも上層部はここを押さえておけば戦争になっても有利にことを進めることができる「保険」程度に考えていたようですが、イギリスや蘭印にとってはのど元に刃を突きつけられるも同然で、これを米英欄が放置しないことは明白だったのですが・・・。

たしかに認識が甘いとしかいいようがありません。

一方で第一委員会の判断は正確でした。もっといい方向にその判断力を生かせと言いたくなりますが、彼らはそもそも対米開戦を企図していて、『現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度』という文書を作成していました。
その内容は南部仏印進出を強行し、アメリカが石油の禁輸を打ち出してきたら、それを口実に開戦まで持って行くというものでした。つまり、第一委員会のシナリオ通りにことが進んだわけです。

太平洋戦争は海軍が推進しました。
単純な事実で、陸軍には海軍戦略や対米構想などありません。
海軍が満州での対ソ戦略について発言しようがないようにです。
当時の日本の縦割りは極端で、海軍などは陸軍の動員システムについても理解が不足してました。
1941年の秋以降に陸軍が強硬論を吐いているように見えるのは、この陸軍と海軍の根本的差です。
即ち陸軍は動員から展開まで準備に時間がかかる上に、取り消しが簡単にはできません。
山本五十六は直前まで対米戦を回避するつもりだった。真珠湾に向かった機動艦隊にも引き返せと命じていた」などと裏がとれない証言が一人歩きしてます。
でも真珠湾より先に日本はマレー半島に上陸して対英戦争を開始していました。
海軍は「引き返せ」と引き返すことは可能ですが、陸軍の場合は船を引き返すように撤兵したり海上に待機したり、どこかに寄港したり、あるいは”何も成果がないまま”動員を解除、といったことができるかといえば不可能なのは容易に想像できますよね。
海軍も海軍善玉論を信じる人も、この根本的なことを理解しようとしません。

海軍は対米戦に積極的でした。
米内・近衛内閣で海相を務めた吉田は「三国同盟に反対したが板ばさみにあって病気辞任した」と戦後に言われてますが、本人は三国同盟に賛成してました。戦後になって「三国同盟に反対した」と捏造しないといけない理由があったのです。
彼の辞任の理由は「米国の軍備計画」でした。そして、何故これで吉田がノイローゼになったかです。
理由は三国同盟の米国のリアクションが軍備強化であったのと、そして、三国同盟に賛成した時点で海軍が対米戦にむけて動きだしたことを無謀と感じたのです。
山本は三国同盟に反対しましたが、これは一時的なものです。
本当は三国同盟賛成派の吉田と対立した逸話はなく、また三国同盟賛成した新大臣の及川は「新任なので事情がわからないから、山本に意見を聞いたら「もういいでしょう」とのことだったから、自分は同意した」と証言しています。

山本は海軍の中心でした。
昭和15年から対米戦について言及していて、演習において「英米戦を仕掛けるべき」との戦略を披露しています。
また昭和16年1月には及川宛に「開戦劈頭に猛爆撃して主力艦隊に打撃を与えれば米国と米国民の士気は喪失する」と真珠湾攻撃による短期決戦構想を訴えています。
太平洋戦争も日露戦争第一次大戦のようになると考えて、広大な海域に点在する島をめぐっての消耗戦になるとは山本も海軍も想定していなかったのです。
そして、真珠湾攻撃の準備にとりかかったのは昭和16年の2月です。
4月には日米了解案が出てきて、日米戦争など海軍以外は想定していませんでした。
海軍が馬脚をあらわすのは独ソ戦勃発を受けて6月下旬に開かれた会議で、この場で「英”米”戦に自信がある(だから南方進出するべき)」と発言して、南方進出に同意しても対米戦を想定していなかった陸軍を驚かせています。
昭和天皇が対米戦の意図についてはじめて知ったのは、南部仏印進駐直後で石油禁輸前にあった海軍軍令部総長永野の上奏ででした。昭和天皇は”海軍の姿勢が危険”だと考えて永野の更迭を木戸に相談しています。これは木戸の反対に遭いましたが。

近衛に「是非やれといわれれば、初めの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。
三国同盟ができたのは致し方ないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。」(日米開戦後の見通しについて、当時の近衛文麿首相から聞かれた時の言葉)
東条は、固執したのは中国での撤兵問題だけです。対米戦はそれ以前に陸海軍の下僚が合意をしていたのと、6月の会議での海軍の発言を忘れてませんでした。東条の強硬論とはその程度のものです。
大体にして真珠湾攻撃の準備からいっても海軍が主導だったことは本来は弁解できません。
ところが、海軍は敗戦直後から徹底して戦犯対策をしていました。
よくしゃべった海軍軍人はひたすら陸軍が悪い、東条が悪いを言いまくったのです。
自信満々で戦いに挑んで完敗した挙句に国土を焦土とかしたことについて、当時のエリート中のエリートたちには受け入れがたい責任でした。
メンバーの石川伸吾は南部仏印進出に反対する松岡に圧力をかけるなど、南部仏印進出の裏工作もやっています。
南方資源地帯確保後の還送(護衛)を全く本気対応した節がない。 彼こそ、日本農耕民族型村社会人間の典型であろう。 日本の村社会は完結型社会であり、資源地帯の村を抑えれば良しとし、 持って帰るには輸送船の護衛が必要なことなど念頭になかったのであろう。  つまるところ、日本の運命を決めるその時にダメ人間がトップであった不幸が日本に存在した。  永野修身は土佐っぽらしくない人物の筆頭か?。 A級戦犯に指定されたが収監中に死去。 戦犯尋問で潜水艦の事を聞かれると『潜水艦のことはよく知らない』と答え周囲を唖然とさせたという。
年/項目
船舶喪失見積り
   喪失実績
1941 5.6
1942 80  95.3
1943 60  179.3
1944 70  383.6
1945    226.0
単位万トン
戦時船舶喪失実態
 
開戦時保有建造船舶
戦時喪失船舶
敗戦時運行可能船舶
隻数
4,225
3,129
588.0
万総トン
1,021
883
79.0
米潜水艦によって1,113隻撃沈された。
 上図左が御前会議に提出した海軍による船舶損失見積りトン数である。倒産が続発した第三セクター娯楽施設の見込み 入場者数の比ではない。見通しの甘さに言葉を失う。船舶喪失見積もりも科学的検証せず、 エイ・ヤーと作り上げた数字だという。
 なぜ、戦争2年目(昭和18年)の損害が少ないのか?と質問された軍令部第一部長の福留 繁(兵40期)は戦争していると段々護衛作戦が上手になるから損害は減る!とうそぶいた。
 同じく軍令部に配属されていた山本親雄(ちかお・兵46期)は自著「大本営海軍部」頁206 で「南方占領地の物資を入手する見込み(輸送船撃沈で)がない、という開戦前に海軍が心配していたことが、 現実の暗雲となってわが国におおいかぶさってきたのである」と人ごとのように書いている。 例えば、河川決壊のおそれがある堰堤があったとしよう。当然のこの堰堤を強化補強する。 資源還送の海上輸送に自信がなければ米英を敵にまわさない方法を選択するか、また弱点が分かっていたなら対応・対策を講じるのが彼らエリートとされた人間の職掌でもあろう。少なくとも残されている資料から海上輸送に万全を期した証拠は全くない。
 レーダーを闇夜にカンテラ。こちらが発見される。ソーナー開発を「なニー、こちらから音を出すだトー」却下。 と開発を封じ込めておきながら白々しい逃げ口上を吐いている。この書は随所に虚偽と欺瞞に満ちている。
  船舶喪失の実態   輸送船船員の死亡

 この船舶喪失見積もりに関与したとされる人物は、 海軍省軍務局第二課長石川信吾,軍務局第一課長高田利種,軍務局第二課員藤井 茂,軍令部第一課長(作戦)富岡定俊, 第一課員神 重徳*らであった。
 このメンバーが第一委員会なるものを主導し日米開戦へと雪崩れ込ませた。非科学的データーを捏造しながら・・・・
* 神 重徳は大和沖縄特攻の起案者とされている。  戦争を始める前も無責任だったが最後も勝ち目のない戦いを展開した。 富岡定俊を除いて出身は長州と薩摩。明治維新で主導的役割を果たした両地域が60年後に日本を滅ぼした。
太平洋戦争は海軍が推進しました。
単純な事実で、陸軍には海軍戦略や対米構想などありません。
海軍が満州での対ソ戦略について発言しようがないようにです。
当時の日本の縦割りは極端で、海軍などは陸軍の動員システムについても理解が不足してました。
1941年の秋以降に陸軍が強硬論を吐いているように見えるのは、この陸軍と海軍の根本的差です。
即ち陸軍は動員から展開まで準備に時間がかかる上に、取り消しが簡単にはできません。
山本五十六は直前まで対米戦を回避するつもりだった。真珠湾に向かった機動艦隊にも引き返せと命じていた」などと裏がとれない証言が一人歩きしてます。
でも真珠湾より先に日本はマレー半島に上陸して対英戦争を開始していました。
海軍は「引き返せ」と引き返すことは可能ですが、陸軍の場合は船を引き返すように撤兵したり海上に待機したり、どこかに寄港したり、あるいは”何も成果がないまま”動員を解除、といったことができるかといえば不可能なのは容易に想像できますよね。
海軍も海軍善玉論を信じる人も、この根本的なことを理解しようとしません。

海軍は対米戦に積極的でした。
米内・近衛内閣で海相を務めた吉田は「三国同盟に反対したが板ばさみにあって病気辞任した」と戦後に言われてますが、本人は三国同盟に賛成してました。戦後になって「三国同盟に反対した」と捏造しないといけない理由があったのです。
彼の辞任の理由は「米国の軍備計画」でした。そして、何故これで吉田がノイローゼになったかです。
理由は三国同盟の米国のリアクションが軍備強化であったのと、そして、三国同盟に賛成した時点で海軍が対米戦にむけて動きだしたことを無謀と感じたのです。
山本は三国同盟に反対しましたが、これは一時的なものです。
本当は三国同盟賛成派の吉田と対立した逸話はなく、また三国同盟賛成した新大臣の及川は「新任なので事情がわからないから、山本に意見を聞いたら「もういいでしょう」とのことだったから、自分は同意した」と証言しています。

山本は海軍の中心でした。
昭和15年から対米戦について言及していて、演習において「英米戦を仕掛けるべき」との戦略を披露しています。
また昭和16年1月には及川宛に「開戦劈頭に猛爆撃して主力艦隊に打撃を与えれば米国と米国民の士気は喪失する」と真珠湾攻撃による短期決戦構想を訴えています。
太平洋戦争も日露戦争第一次大戦のようになると考えて、広大な海域に点在する島をめぐっての消耗戦になるとは山本も海軍も想定していなかったのです。
そして、真珠湾攻撃の準備にとりかかったのは昭和16年の2月です。
4月には日米了解案が出てきて、日米戦争など海軍以外は想定していませんでした。
海軍が馬脚をあらわすのは独ソ戦勃発を受けて6月下旬に開かれた会議で、この場で「英”米”戦に自信がある(だから南方進出するべき)」と発言して、南方進出に同意しても対米戦を想定していなかった陸軍を驚かせています。
昭和天皇が対米戦の意図についてはじめて知ったのは、南部仏印進駐直後で石油禁輸前にあった海軍軍令部総長永野の上奏ででした。昭和天皇は”海軍の姿勢が危険”だと考えて永野の更迭を木戸に相談しています。これは木戸の反対に遭いましたが。

近衛に「半年や一年は暴れて見せる、ただし二年三年となったら保証出来ない。」といった逸話が、海軍や山本は避戦だったとの逸話で決まって取り上げられますが、笑止です。
「山本は連合艦隊司令長官でしかない」と引用している質問の回答でも出ていますが、そもそも”首相がなぜ軍政トップでも軍令トップでもない山本とサシで会ったか?”について何故疑問を持たないのでしょうね。
山本は海軍の中心でした。
近衛はそれを知っていたからわざわざ呼びつけたのです。
ところが、自身の証言が残っていますが、山本は近衛を嫌っていました。しかも、ゾルゲ事件で明らかになりますが、近衛周辺から機密情報が漏れているのを軍部は疑っていました。
要するに「山本が率直に自身の腹の内を近衛に語るなどという解釈はおかしい」のです。

東条は愚かな小役人で、固執したのは中国での撤兵問題だけです。
対米戦はそれ以前に陸海軍の下僚が合意をしていたのと、6月の会議での海軍の発言を忘れてませんでした。
東条の強硬論とはその程度のものです。
大体にして真珠湾攻撃の準備からいっても海軍が主導だったことは本来は弁解できません。
ところが、海軍は敗戦直後から徹底して戦犯対策をしていました。
よくしゃべった海軍軍人はひたすら陸軍が悪い、東条が悪いを言いまくったのです。
自信満々で戦いに挑んで完敗した挙句に国土を焦土とかしたことについて、当時のエリート中のエリートたちには受け入れがたい責任でした。





4 日米開戦に反対した人はいたのか “日米開戦不可ナリ”

 作家・保阪正康氏の主宰する『昭和史を語り継ぐ会』に機関誌があり、ある号に「なぜ皆さんは戦争に反対しなかったのですか」との女子大生の文章が掲載された。(文藝春秋特別版・平成17年08月増刊号P40)これは“戦争批判”を展開したのではなく素朴な疑問だったらしいが、戦争を知らない世代の率直な吐露であろう。定年を過ぎて少しは太平洋・大東亜戦争の内実を知りつつある私でさえ瞑目して考えることがある。この頁では当時の日米対立の観点から当時の潮流に逆らって明確に日米戦争に反対した人に注目、取り上げる。いずれも昭和16年(1941)時点の人物である。陸軍情報将校・小野寺信、陸軍主計将校・新庄健吉、海軍将校・山本五十六、駐日アメリカ大使・ジョセフ・グルーの4人。

この項の参考書
◇正論・平成17年9月特別号『昭和天皇と激動の時代』産経新聞
◇『バルト海のほとりにて』小野寺百合子 共同通信社
◇『昭和天皇独白録』文春文庫
文藝春秋・平成15年12月号『真珠湾騙し討ちの新事実』
◇プレジデント・平成6年3月号『日本人論の傑作を読む』
平成23年復刊
◇『滞日十年』ジョセフ・グルー ちくま文芸文庫

 ページの最後には、1人の代議士と戦後の3人の内閣戦後総理大臣を努めた人物を取り上げる。この4人は明確な反戦論者であり、紹介する書・HPも多いので簡単な略歴と反戦行為にとどめる。略歴は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照。
◇小野寺信(おのでらまこと・陸軍少将)明治30年(1897)―昭和62年(1987)
(画像は番組タイトルと昭和60年時の小野寺信

 私が小野寺信の名を知ったのは、NHK特集「日米開戦不可ナリ」なる特集番組である。昭和から平成に移行した2月の建国の日から12本の「NHK特集」が再放送された。「昭和万葉集」などと一緒に12日間、深夜の再放送だった。「日米開戦不可ナリ」は「ストックホルム―小野寺大佐発至急電」とのサブタイトルが付いている。当時のストックホルム駐在武官である小野寺は、同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、そのドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況にあることの正しい情報を得て、日本の英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。(正論「昭和天皇と激動の時代」P278)小野寺は、その情報を匿っていたポーランド愛国主義者、ミハール・リビコフスキー(白系ロシア人を装い「ぺーター・イワノフ」なる名でもあった)などから得ていた。両者とも北欧を拠点に置くスパイ、つまりは情報収集武官である。小野寺は、ルビコフスキーからの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、日本本国へドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると何度も警告した。しかし日本の大本営は小野寺情報を信用せず、ヒトラー一辺倒の大島浩ドイツ大使のベルリン発情報だけを採用し、ついに日米開戦に踏み切る。(なお小野寺、リビコフスキーは昭和60年時、存命だった)リビコフスキーは、大戦中、祖国のために心骨を砕いて働いたのに、ポーランドの共産化のためについに祖国に帰れず、戦後アメリカに帰化、後にカナダに移住した。

 特集番組の中でリビコフスキーは「今日私が生きているのは小野寺のおかげ」と言わしめている。昭和45年の「大阪万博」で劇的に再会し、その後交流が続いた。自分が協力した記録がポーランドの軍事博物館にも現在の防衛庁にも残るのを素直に喜び、小野寺が当時の日本の同盟国のドイツ国防司令部から終始庇い通した恩は、一生忘れるものではないと小野寺夫人に伝えている。(「バルト海のほとりにて」P163)(左記画像・リビコフスキー)

 その『バルト海のほとりにて』は、昭和60年の発行だが、名著ゆえに再版され、このほどインターネットで購入した。この内容によれば著者・小野寺百合子は、武官とはどのような仕事をするのか、そしてその妻の役割はどのようなものなのか、詳細に語っている。武官の責任のうち一番重要なのは暗号書や重要文書の保管。保管してある金庫の管理、外出するときは夫と妻が分けて持ち歩くことや、暗号文書の作成、解読など第三者に任せることのできない難しい仕事を妻が担っていたと、NHK特集番組で、今は亡き小野寺百合子自身が語っている。(画像は小野寺百合子・下)

 次女の大鷹節子氏によれば、小野寺信の情報収集能力が際立っていたのは、ドイツ語・ロシア語・スウェーデン語戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返す。なお単独でスウェーデン国王を介しての和平工作も試みている。この選択は戦後正しかったことが証明されるが、またしても大本営はこの情報を無視。この結果、ソ連は易々と満州へ攻め入り、シベリアに60万人もの日本兵が送られ、大陸に居た100万人もの民間人が、帰国時期に“阿鼻叫喚”とも云える苦しみを味わい、中国残留孤児のような悲劇は今も続いている。

 小野寺情報を握り潰したのは大本営参謀本部の一握りの「奥の院」の参謀だったと大鷹節子氏は言う。(正論「昭和天皇と激動の時代」P279)その参謀とは今もっても解らないらしい。その一つの答えとして、小野寺自身関係なくとも二・二六事件を起こした「皇道派」に属したから見向きもされなかったのだと分析するのは、昭和史に詳しい半藤一利氏である。(「文藝春秋平成17年11月号・日本敗れたり」P288)ことの内容は精査されず、軍の派閥でしかないレッテルを貼って聞く耳を持たないのは、昔も今も変らない日本の国民性なのか。これは今の官僚の世界にも脈々と引き継がれている気がする。大本営の公文書などは、終戦の日に、その多くが焼却されたので確かな証拠はない。それを現在、現代史家が英米などの公文書館で発掘しているのは更に悲しい。しかし“小野寺情報瀬島龍三、上司の梅津美治郎、陸軍大学卒業の序列から、これは忖度・斟酌した結果である。

 小野寺百合子は、著書のあとがきで「滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗しきれるものではない。一片の木片は水に流され消え去る。だがその木片の行動の軌跡は当時認められなかったとは云え、正確に記録に止めてほしい」と謙虚だが(「バルト海のほとりにて」P250)無念さがにじみ出ている。(下記はスウエーデン駐在武官時代の小野寺信)

 小野寺が逸速くキャッチした「ヤルタ会談」とは、連合国3カ国の首脳の会談。1945年(昭和20年)02月行われ、第二次世界大戦後の処理について協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。日本に関してはルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄すなわちソ連の対日参戦を促した。ドイツ降伏の2〜3カ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。小野寺情報の通り、ヤルタ協定に従ってドイツ降伏3カ月後にソ連は日本に宣戦布告。易々と満州へ押し入り無抵抗の日本人に残虐の限りを尽くした。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連軍参戦の翌日に、ここでやっとポツダム宣言受諾を決めた。小野寺情報はなぜ無視されたのか、残念などと言うものではない。私は小野寺信のような優秀で憂国の士が当時の参謀本部に存在していたことが驚きであり、それを生かさないばかりか邪魔者扱いしたドイツ大使館と参謀本部に怒りを覚える。いずれにしても詳しい経緯は「戦争はなぜ早められなかったのか」の章で考察してみたい。

 この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談で中国や朝鮮の帰趨を決定していた。しかし米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。この会談以降アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が始まった。
◇新庄健吉(しんじょうけんきち・陸軍主計大佐)明治30年(1897)―昭和16年(1941)

 大日本帝国陸軍の情報将校・新庄健吉の名を知ったのもNHK特集である。平成03年に放送された「御前会議」(私の「無明庵」で紹介)、75分の番組だった。新庄は軍人と云いながら「主計大佐」で経理を扱う部署の軍人である。大正12年06月陸軍経理学校高等科に入り、卒業後、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。昭和03年03月経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び昭和05年03月修了。同年4月から陸軍被服本廠員となり、翌年03月には陸軍省経理局課員として主計課に勤務。ソ連駐在などを経て昭和15年03月に主計大佐へ進級し、昭和16年01月参謀本部よりアメリカに出張を命ぜられ同年03月、横浜港から日本郵船の「龍田丸」でニューヨークに向かう。偶然乗り合わせたのは、後に報告書を託す陸軍省軍務課の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐だった。岩畔は前項で述べたように「日米諒解案」をアメリカ側と検討することにあった。

 新庄の任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し日米開戦となった場合の戦争見通しを立てることだった。つまりは諜報・スパイなのだが、ニューヨーク到着以後非合法な活動は行わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し、日本との国力差を数字に表すことにあった。諜報が目的ゆえ駐在武官府等の在米陸軍機関では活動しなかった。新庄の身分は三井物産社員である。エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内にデスクを置き、仕事を始める。元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明らかだったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3、この差を縮める事は不可能との結論で、この調査結果を帝国陸軍参謀本部に報告書として提出することになる。前述の「御前会議」にも放送当時存命の「秋丸次朗主計大佐」の告白がある。新庄健吉がアメリカ本土で国力差を検討する前に、秋丸中佐が一流学者を集めて、アメリカとの国力差を研究している。ここでも経済戦力の比は20対1と結論が出ていた。秋丸報告と新庄報告は共に昭和16年08月の時点で陸軍・大本営に届いていたことになる。

 新庄の仕事をサポートした当時33歳で三井物産社員だった古崎博は、前述のNHK「御前会議」でも語っている。国力調査の数時データはあくまで公開されている産業情報だったと指摘、(「開戦通告はなぜ遅れたか」P99)三井物産嘱託を装った新庄のデスクには雑誌・新聞・統計年鑑などが堆く積まれていた。新庄はそのころ日本には殆ど無かったIBM社製の統計機を使用した。3カ月足らずで出されたデータは、日米の間には、鉄鋼1対24・石油産出力1対無限・石炭1対12・電力1対5・アルミ1対8・飛行機1対8・自動車1対50・船舶保有量1対2・工業労働力1対5といった格差があり、重工業においては1対20で、弾き出された現実は無残なものだった。このデータは岩畔豪雄に託され、後述するように確かに政府・大本営に報告された。むろんこれが生かされることはなかったのは、小野寺信と同様である。新庄が仕事を終え、ニューヨークを離れるときディナーを開き三井物産社員を労った。前述の古崎博は現役の高級軍人である新庄の「日米開戦があれば必ず日本は負ける」とのスピーチにその場に居た全員が凍り付いてしまったと証言。さらに「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」との寂しげな新庄の表情を忘れないと叙述している。(「前掲書」P146)

 敗戦後、アメリカから「日本の戦争経済力」を調査する専門家の調査団が来日した。無論日本に戦争する国力は限定的なものだったと結論づけた。何も利益をもたらさなかった新庄健吉の報告書は陸軍省に保管されていて、その正確な分析データはアメリカの調査団の目に止まり、こんな立派なレポートがありながら「何故アメリカに宣戦」したのか、と呆れ返ったとの戦勝国の報告がある。(「前掲書」P178)渡米から3カ月働きづめだった新庄は体調を崩す。昭和16年10月頃にワシントンにある駐米陸軍武官府に拠点を移すが更に病状は悪化、11月にワシントン市にあるジョージタウン大学病院に入院する。然し12月4日急性肺炎を併発し44歳で呆気なく死ぬ。

 新庄の葬儀は何とワシントン時間の12月07日、日本時間では12月08日にあたる。大日本帝国海軍の戦力を以ってハワイ真珠湾を攻撃した日だった。アメリカへの宣戦布告が遅れ「トレスチャラク・アタック」、日本語の「騙し討ち」は、現在でさえ「リメンバー・パールハーバー」と言われ続けている。この事実は、太平洋・大東亜戦争に詳しくない者にもあまりに有名である。ワシントンにいた駐米大使の野村吉三郎がコーデル・ハル国務長官最後通牒となる「通告文」を手渡したのは、ワシントン時間の昭和16年12月07日午後02時20分のことで、午後01時に手交の筈が1時間20分も遅れ、真珠湾攻撃から55分も経過した後だった。この日本外交史上最大の汚点は、戦後すぐの昭和21年04月に外務省に調査委員会ができた。だが真相が明らかになれば、日本では外務省の怠慢、アメリカでは「宣戦布告があった」事実を恐れ、双方の都合で責任はうやむやになった。(「昭和史の論点」P167)その証拠に当時の大使館の井口貞夫参事官も奥村勝蔵書記官も共に外務次官や大使に栄転しているのである。(「昭和史の謎を追う・上P380)これまでは、その原因は大使館職員である一等書記官奥村の怠慢で外務省からの文書を英語に翻訳・浄書するのが遅れたことが定説である。外務省は平成06年(1994)にもなって「通告文遅延」の責任が外務省にあるのを認めた。何と真珠湾攻撃から53年目の謝罪である。

 この日の推移に前述の新庄健吉の葬儀が深く関わっていた、とするのが作家・斎藤充功氏の説である。(「文藝春秋・平成15年12月号」P142)新庄の葬儀はワシントン市内のバプテスト教会で執り行われたが、この葬儀に磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や野村吉三郎・来栖三郎両大使が参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向かった。ハル国務長官最後通牒を手渡したのは午後02時20分、1時間20分の遅れだった。新庄家に残された『新庄健吉伝』には、当時大使館で条約担当の松平康東(まつだいらこうとう)一等書記官も葬儀に出席、その日の推移が語られている。(「前掲書」P146)

<葬儀に同席した松平康東一等書記官は「葬儀は短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい。と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。その日の午後1時には「国交断絶のやむなきに至った」旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかとノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。その時「ハワイの真珠湾を日本が攻撃中」の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに「葬儀の中止」を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気を揉んだことはありませんでした。葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省に向け、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して日本の最後通告を伝えたのですが、ハルが「無通告の奇襲攻撃」と激怒したのも当然です。しかし実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした>

 宣戦布告が遅れたのはこの新庄の葬儀の出席が原因だと斎藤氏は分析。だが、この説が弱いのは、又聞きであること。『新庄健吉伝』へキリスト教機関誌「原始福音」から引用した著者・稲垣鶴一郎は、旧ソ連の収容所で近衛文麿の長男・文隆から聞き、文隆は松平康東から聞いた。さらに戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には「開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり、故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」(「前掲書」P150)と記されている。宣戦布告通告の遅れは、決着済みだが斎藤充功氏は、なぜ葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、なぜ野村・来栖両大使が参加したのか、松平が告白したその機関誌の対談記録をなぜ関係者は、永久部外秘扱いにするのかと問う。葬式の牧師の長いメッセージも「騙し討ち」を演出したかったアメリカ側の謀略の匂いさえ窺え(「開戦はなぜ遅れたのか」P60)新庄健吉の死の原因さえ謎であると忖度・斟酌する。

 新庄から報告書を託された岩畔豪雄に関しては一般に手に入る資料は少なく、陸軍中野学校創設に関わった情報戦の第一人者として昭和15年から16年の日米交渉の段階を著わす本に出てくる。現在岩畔の関係者の制作かも知れないが「イワクロCOM」というHPに詳しい。「昭和天皇独白録」(文庫版P71)にも日米交渉に岩畔大佐が関わっていることが記されている。岩畔は通称「謀略課」に籍を置く情報戦の第一人者だった。(「開戦はなぜ遅れたのか」P76)岩畔は自ら近衛総理、外務省、陸軍省参謀本部海軍省、海軍軍令部、宮内省と日本を動かすありとあらゆる力の源に足を運んで“新庄レポート”を報告した。このことは「大本営陸軍機密日誌」でも確かめられる。参謀本部は、岩畔にその後の一切の宮中への参内を禁止した。「親米的な意見は口に出すな」だった。情報将校の報告などエリート軍人にとっては、その内容より組織の人事、序列意識が優先され、採用されることがなかった。このことは小野寺信にも新庄健吉にも国民にも取り返しのつかない不幸だった。
山本五十六(やまもといそろく・海軍大将、死後元帥)明治17年(1884)04月―昭和18年04月

 山本五十六は太平洋・大東亜戦争を語るとき、海軍だけでなく軍人として最も語られることの多い人物。戦争初期の功労者としても悲劇的軍人としても書物・映画などで一番多く語られている。山本は、大正8年(1919)駐米武官となり、ハーバード大学に留学、大正14年(1925)再度駐米武官となる。昭和4年(1929)ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加。昭和09年(1934)「ロンドン海軍軍縮会議」予備交渉の海軍側首席代表となる。昭和11年(1936)海軍次官。12年米内光政(よないみつまさ)海軍大臣もとで次官に留任するが、昭和14年(1939)山本の身を暗殺から守るため米内の意向で連合艦隊司令長官となる。次官当時からの懸案事項の「日独伊三国軍事同盟」に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期、戦艦「大和」の建造に反対、日米開戦には最も反対していた。昭和15年(1940)海軍大将に昇格する。しかし反戦の意向は実らず、却って昭和16年(1941)12月、真珠湾攻撃を命令することになり日米は開戦となる。昭和18年(1943)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊戦闘機に撃墜され死ぬ。山本の死は一ヶ月以上秘匿されることになる。真珠湾攻撃成功から半年後の昭和17年06月のミッドウェイ作戦失敗とこの山本の戦死が暫く秘匿されたのは、思えば日本の戦争を最もよく象徴しているとさえ云える。昭和17年06月以降の大本営発表は殆ど嘘だった。この山本五十六の戦死の時点で終戦すべきだったと思うが、今なら何とでも云える。(TV画像は墜落機)

 山本の秘書を勤めていた実松譲(さねまつゆずる・平成08年死)があるとき執務室の雑談で「君、アメリカと戦争をはじめようと本気で考える連中がいるんだね」とあきれたようにつぶやいていた山本の思い出を語っている。(「昭和史忘れ得ぬ証言者たち」P66)つまり山本は、日本がアメリカと戦争するような国力はないとの数字と事実を早くから判っていた。後に解ることだが大正08年の駐在武官のときから既に山本はアメリカから徹底的に監視されていたらしい。日本海軍が本当に戦うのなら「ホワイトハウスまで追い詰めなければならない」との友人への手紙は、開戦後反日キャンペーンに使われ、真珠湾攻撃の「騙し討ち」と共にアメリカ市民から恨まれた。「そこまで日本の国力は無く、アメリカと戦争などすべきではない」との真意を逆説的に取られて利用された。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P107)駐在武官の仕事の一つは情報収集である。山本は当時のデトロイトやシカゴの重工業を目の当たりにして、肌身でアメリカの国力を認識していたのが事実。

 陸軍には「統制派」「皇道派」の派閥対立があって、その暗闘が日本を次第に破滅に追い込んでゆくのだが、海軍にも「艦隊派」「条約派」の対立があった。艦隊派とは、日露戦争の勝利以来の伝統的な漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦を“金科玉条”としてきた。つまり太平洋を渡ってくるアメリカ艦隊に対し、駆逐艦や潜水艦などの小部隊で襲撃を繰り返してその戦力を減らす。最後に日本近海で待ち受け、戦艦を中心とした主力部隊が艦隊決戦で勝負をつける作戦である。(「ドキュメント太平洋戦争への道」P341)つまりは「日露戦争」の勝利の公式から一歩も出ていないことになる。山本五十六は「条約派」を支持して軍縮を遵守し、無用な衝突をするべきでないとの立場である。私は山本五十六には大きな歴史を俯瞰する度量が備わっていたと思う。それはやはり二度に渡る駐在武官時代の冷徹な観察眼だろう。特に大正08年の武官生活は「第一次世界大戦」の戦況と航空機の発達を理解していたことである。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P117)「日本の国力でアメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるものではない」との告白はそれを物語る。

 それまで定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率5・5・3は、大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められていた。「条約は、日本が3に縛られているのではない、米英を5に縛っている。条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば国力の差から、5対3どころか10対1に引き離される。巨艦を造っても不沈は有り得ない。今後の戦闘で戦艦は無用の長物となる。飛行機の攻撃力が、非常なる威力を増大する」(NHK「その時歴史は動いた」山本五十六)この山本の客観的で科学的な洞察も空しく、当時の世相は決して冷静ではなかった。昭和09年日本政府(岡田内閣)は予備交渉に対し、差別比率主義の排撃、総トン数主義の採用、ワシントン条約の廃止などを骨子とする根本方針を決定。つまり国力の冷静な分析なしに艦船を造るのである。日本国内は屈辱的条約破棄を主張する声は高く、日本政府は不平等条約破棄を主張していたが、山本は日本側条件の譲歩を2度ほどロンドンから日本政府へと送る。しかし日本政府はこの予備交渉の内容をよしとせず、昭和9年12月ワシントン条約を破棄、昭和11年(1936)1月ロンドン軍縮会議も脱退してしまう。

 当時海軍次官山本五十六は当時の欧米事情に詳しく、米内光政海軍大臣・井上茂美(いのうえしげよし)軍務局長らと「日独伊三国軍事同盟」は、英米と無用な軋轢を生むと反対する。「日米正面衝突を回避するため、万般の策をめぐらすべきで絶対に日独同盟を締結すべきではない」「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足している上に、米英からの資材はこなくなる。一体これをどうするつもりなのか」この山本の発言は一貫して軍政畑を歩いてきた軍人だからの認識であろう。今、思えば常識で正論である。今、我々の頭を過るのは太平洋・大東亜戦争アメリカとの無謀な戦いだったと思うだけだが、当初は中国のイギリス租界(中国における外国人居留地区)における「天津(てんしん)事件」の事実、日本人への虐殺事件が“反英感情”に火を点けた。(「昭和史」P249)日独伊三国同盟は、これが呼び水となった。英米を敵に回すべきでないとの海軍リベラル派に対して、親独ムードは反比例して感情的に高まるばかりだった。知性・理性でいわゆる近代市民社会を知る「宮中グループ」がいかがわしい新興国ナチスドイツに眉をひそめたとしても日本全体はそうではなく生活のレベルは低かった。

 中国戦線は泥沼化、日本の経済的事情からの「満州」への国民感情は反英米へ発展し、その反近代・尊王攘夷的心理は陸軍が吸収していたのは否定できない。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P121)山本五十六にはそうした宮中周辺への不満もあったらしい。したがって山本が止めようとしたのは、感情よりも純粋に軍人としての物理的判断だった。連合艦隊司令長官就任も采配・指揮能力を買われたものでは無く、三国同盟に強硬に反対する山本が、当時の軍部内に少なからず存在した三国同盟賛成派勢力や右翼勢力により暗殺される可能性があったからである。それを当時の海軍大臣米内光政が危惧し、一時的に海軍中央から遠ざける為の人事を行った結果である。歴史のIFとして山本を省部に置かなかった米内の決断を非難する現代史家もいる。

 「日独防共協定」がありながらドイツは、昭和14年(1939)「独ソ不可侵条約」を結ぶ。さらに第2次世界大戦が始まり、翌年昭和15年になるとドイツは破竹の勢いで欧州を凌駕する。こんな時に登場したのが総理大臣・近衛文麿、近衛に推された松岡洋右だった。詳細は省くがもう山本五十六が「英米を敵に回す愚」を主張しても無駄だった。松岡の「日米対立を防ぐには力による対抗だ」の信念に振り回され、元々英米主導の世界に懐疑的だった近衛は、大本営の軍人・世論の「バスに乗り遅れるな」の合唱に抗えなかった。山本とは盟友の海軍兵学校の同期・堀悌吉(ほりていきち)に「内乱で国は滅びない。戦争では国が滅びる」と言い残し呉の艦隊へ空しく帰る。(「昭和史」P296)

 三国同盟締結の勢いか、その締結から1週間も経たないうちに、中国南部より陸軍は北部仏印(フランス領インドシナ・現ベトナム)に進駐する。山本は西園寺公望の秘書に「アメリカと戦争すると言うことは、全世界を相手にすることだ。東京辺りは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。こうなったらもうやむを得ない」と慨嘆する。だが山本五十六は最後の抵抗を試みる。海軍強行派の軍務局課長の石川信吾大佐を名指して更迭を及川古志郎(おいかわこしろう)海軍大臣に具申する。しかし海軍中央の流れを止めることはできなかった。この昭和15年は折しも「皇紀2600年」という国策の全国祝賀ムードで“流れ”はどんどん反英米に向かった。翌昭和16年になると山本五十六の信念とは全く逆の方向へと流れは更に加速する。

 日米開戦の直接の切っ掛けを作ったのは海軍中枢の「第一委員会」などの軍人だが、元とは云えば陸軍の中国への無謀な侵略にあったのは間違いない。山本五十六の不信感は陸軍に対する絶望感があった。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P126)山本にはどうせ避けられないなら海軍主導の戦争で早く終わらせたい考えが芽生えて行く。南部仏印(現ラオスカンボジア)進駐でアメリカに石油を止められた日本は、「戦争」か「中国撤退」か二者択一を迫られる。東條英機内閣誕生では東郷茂徳外務大臣の「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」も空しかった。山本が近衛首相に語った言葉に「初め半年や1年は暴れてご覧に入れます。しかし、2年3年となっては全く確信は持てません。日米戦争回避に極力御努力を願います」と言いつつ「私が長官である限り真珠湾攻撃は必ずやる。そして、やるかぎりは全力を尽くす」と決断する。山本から海軍大臣嶋田繁太郎あての手紙に、戦国時代の奇策「桶狭間とひよどり越と川中島とを合せ行ふの已(やむ)を得ざる羽目に追込まるる次第」(「昭和史」P364)とあるのは、やれば負けるのが当然の戦争には奇策しかないと判断したからである。疲弊しきっている国力に、海軍伝統の漸減邀撃作戦などは持久戦に他ならず、山本の判断では話にならなかった。

 巨大戦艦の戦いが主流だった当時、航空機による攻撃などでは前代未聞。しかし山本は、緒戦で敵に大打撃を与え、戦争を早期に終息させることで日本が生き残る一縷の希望を見いだし、真珠湾攻撃の作戦にすべてを賭けてゆく。航空隊で米軍の拠点・ハワイ真珠湾を撃破する作戦は、日本が生き残る唯一の道と信じた。しかし、そこには多くの困難があった。ハワイまで米軍に知られず接近できるか。水深のない湾で既存の魚雷が使えるか。その難問を克服するため、山本は技術開発と極秘訓練を繰り返した。だが山本はあくまで交渉妥結を真に望んでいた。山本は交渉妥結の見込みがあれば、作戦を中止するよう指示した。連合艦隊の最終打合せでの山本と指揮官たちの応酬の言葉に「ワシントンで行われている対米交渉が妥結したならば、ハワイ出動部隊はただちに反転して帰投せよ」と指示した。

 南雲忠一中将など何人かの指揮官の「それは無理な注文です。出しかけた小便は止められません」(「昭和史」P372)なる言葉に山本は激怒する。「もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら即刻辞表を出せ。百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」この言葉は各種の戦争の書でもTV番組でも紹介されるくだりである。昭和史に多数の著書を持つ半藤一利氏は「山本五十六が、昭和天皇の中に大元帥天皇がいるんだということを知っていた」(「昭和史の論点」P153)と推論する。つまり天皇の大権で大元帥の作戦を止められたのではないかとの分析である。だが、それも空しかった。「出しかけた小便は迸ってしまった」としか言いようがない。

 昭和16(1941)年12月08日(ハワイ現地時間の07日午前07時55分)ハワイ北方海上日本海航空母艦から発進した航空機183機がアメリカ軍基地真珠湾に攻撃を開始した。日本時間では「12月08日午前03時25分」真珠湾攻撃は「だまし討ち」と米世論を激昂させ、アメリカは国の総力を挙げて逆襲に転じる。当初の山本の狙いは外れ、戦争は長期化。日本に310万人を超える犠牲者を出す悲劇をもたらした。山本五十六の墜落の死の状況は今もって詳細に解らないが、撃墜された後も生きていて自ら拳銃で命を絶ったのが真相のようだ。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P130)「山本五十六」の死をもって事実上「太平洋・大東亜戦争」は“敗戦”だった。
◇ジョセフ・グルー(1880―1965)駐日米国大使

 今や「ジョセフ・グルー」を知る人は少ない。戦後すぐの昭和23年10月、グルーの著書『滞日十年』の翻訳版はベスト・セラーになった。少しでもアメリカの情報を得ようとする日本人に共感を得たらしい。この本は今、インターネットの古本でも手に入らない。したがってこの項は『滞日十年』を参考に書かれたものでしかグルーを語ることができない。以下は『プレジデント平成06年03月号・日本人論の傑作を読む』『歴史街道平成13年09月号・真珠湾攻撃』からの忖度・斟酌である。

 ジョセフ・グルーは、1880(明治13年)年ボストンの名家に生まれた。生家は裕福で、ボストンの上流社会に育った。1902年に名門ハーバード大学を卒業。大学時代は課外活動に熱中、大学新聞の主筆・スポーツ・ハンティングなどに夢中だった。卒業後の海外旅行で日本を知ることになる。子供の頃の病気で難聴だったが任務に支障はなく、カイロの領事事務官として外交官生活がスタートした。ボストンの名家出身の妻は、偶然だが江戸末期、日本に開国を促したペリーの兄の曾孫だった。妻の父親も日本で過ごしたことがあった。ベルリンに約9年間駐在。1918年、アメリカ代表に伴ってパリ講和会議に赴く。ここでは日本の西園寺公望(さいおんじきんもち・第10代総理大臣)・牧野伸顕(まきののぶあき・大久保利通の次男で吉田茂の義父)などと交流を持ち、後の日本勤務の土台となる。1922年からはローザンヌ会議ですぐれた外交官の地位を確立した。1924年大正13年)国務次官として本国へ帰る。本国では国務省内で仕事上いろいろ軋轢があったらしい。1932年(大正7年)駐日大使として赴任する。すでにグルーは温厚な人柄、優れた見識、公正な観察力、豊富な経験を迎えた練達の外交官として社交の旨さは定評となっていた。しかし難聴のハンディ故か日本語は話せなかった。グルーがシカゴを経つとき、日本では五・一五事件が発生、軍靴が聞こえ始めていたのは象徴的である。グルーに課せられた仕事は日本の情勢を正確に把握し、日本人の考え方を正確に本国に伝えることだった。『滞日十年』には「日本には戦争を回避しようとする穏健な勢力もあり、信頼できる人も多く存在した」と書かれている。

 当時アメリカ本国では、政府も庶民も「エンペラー・ヒロヒトは日本軍国主義頭目」との考え方が支配的だったが、戦後マッカーサー昭和天皇とすぐ打ち解けたように、グルーは、夫人ぐるみで昭和天皇・皇太后と共に親愛の念を抱いていた。内大臣斎藤実(さいとうまこと)も深い親交があったが、二・二六事件の無残な死に大きな衝撃を受ける。日独伊三国同盟による対米悪化の状況もワシントンに報告するが、上流階級・庶民のなかにも日本人的良さが残っていることも添えている。それは自分の飼い犬が散歩の途中、皇居のお堀に落ちたとき、タクシーの運転手・新聞配達の少年が危険も顧みず救助、名も告げず立ち去ったことに感動したなどとのエピソードもある。

 外務大臣松岡洋右には手を焼いたらしいが、昭和16年08月の近衛・ルーズベルトの頂上会談には(「あの戦争になぜ負けたのか」P217)近衛とともに、暗殺を恐れ護身用の拳銃を携帯しつつ実現に協力した。実現には至らなかったが、グルーは常に日本の立場に立って、日本政府の政策、国内情勢を日本の歴史を踏まえつつ大局的に観察・理解・解釈しようとしたのは、今に思えば間違っていなかった。戦時交換船で帰国後も「知日派」の立場から戦後の対日処理計画立案に努力をそそいだ。日本を本土決戦から救ったアメリカ側の立役者との評価もある。日本の友人たちを戦争の困難から解放するため、アメリカ政府の中でほとんど孤軍奮闘に近い活躍をしたのは事実で、グルーの努力が戦後の占領の礎となった。「ポツダム宣言」の原案はグルーが書いたのが事実である。ジョセフ・グルーを紹介したHPで、日本を戦争に追い込んだ一方のアメリ国務長官コーデル・ハルが「ノーベル平和賞」を授賞したのに、グルーはあまり評価されていないとの指摘は私も日本人として尤もであると思う。


斎藤隆夫(さいとうたかお民政党代議士、戦後は第1次吉田内閣の国務大臣

その風貌からか「ネズミの殿様」と国民から親しまれた。兵庫県出石郡(現在の豊岡市)出身。現在記念館がある。明治27年、東京専門学校(現早稲田大学)行政科を首席で卒業。明治28年弁護士試験(現、司法試験)に合格。明治45年、立憲国民党より出馬、初当選。以後、昭和24年まで衆議院議員当選13回。卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判した。特に昭和11年5月7日の「粛軍演説」、国家総動員法制定前の昭和13年2月24日の「国家総動員法案に関する質問」演説、昭和15年2月2日に「反軍演説」(「支那事変処理に関する質問演説」)を帝国議会で行った。現在では正論である。この反軍演説は議会、政友会の反発を招き、圧倒的多数の投票にで議員を除名される。だが昭和17年の総選挙では軍部からの妨害をものともせず、翼賛選挙で非推薦ながら最高点で当選。終戦後昭和20年11月、日本進歩党の創立に参画。昭和21年、第1次吉田内閣の国務大臣として初入閣。現在、昭和史の書には必ず紹介される硬骨の政治家として有名。米内光政内閣の反軍演説には賛意の投書が殺到した。

幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)第44 代内閣総理大臣(昭和20年就任)

戦前に4回外務大臣を経験。1915年、ワシントン会議では全権を任される。1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」と言われた。軍人が跋扈しはじめ軍事国家拡張路線と対立。昭和5年、ロンドン海軍軍縮条約を締結させると、軍部からは軟弱外交と非難された。その後は満州事変の収拾に失敗、政界を退く。幣原外交は事実上文民外交の終焉となる。浜口雄幸首相の銃撃による負傷で首相臨時代理を務めたこともある。事実上、外務省の部下だった後の総理大臣・吉田茂の推挙で昭和20年10月内閣総理大臣に就任。本人は首相に指名されることなど思いも寄らず、昭和天皇の説得があって嫌々政界に返り咲いた。親英米派としての独自のパイプで活躍、戦後憲法の第9条の誕生に大きな役割を果たす。旧憲法下最後、戦後初の総選挙となる第22回衆議院議員総選挙日本自由党が第一党となり総辞職。後に民主自由党に参加、衆議院議長に就任。総理大臣経験者の衆議院議長は初めてだった。巧みな英会話で連合国軍最高総司令長官マッカーサーを唸らせたのは有名。『外交五十年』という著書がある。
吉田茂(よしだしげる)第45・48・49・50・51 代内閣総理大臣(昭和21年就任)

岳父は牧野伸顕、牧野は大久保利通の次男。戦前いわゆる枢軸派からは「親英米派」として要注意人物だった。戦争中は近衛文麿重臣グループと和平工作に従事。ヨハンセングループと言われたのは有名。昭和20年2月の近衛上奏に協力したことで憲兵隊に拘束される。この事実がいわば戦争に反対だった勲章になる。後年著書で軍人は教養のない人種と厳しく批判。自衛隊創成には旧軍人を一切拒絶した。戦後、東久邇宮稔彦王内閣・幣原喜重郎内閣の外務大臣に就任。昭和21年5月、首相に就任し第1次吉田内閣を組織。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相。昭和26年9月、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。受諾演説の際、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行った。これは後年白州次郎の助言だったことが判明。総裁就任後は多くの官僚出身者を国会議員に引き立てる。池田勇人佐藤栄作がその代表的人物。吉田とGHQ司令官マッカーサーは、解任され日本を去るまで親密だった。「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、個人的な信頼関係を重視した。
石橋湛山(いしばしたんざん)第55代内閣総理大臣(昭和31年就任)

戦前から一貫して日本流の植民地政策を批判し、逸早く加工貿易立国論を唱え、戦後は日中米ソ平和同盟を主張した。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月で脳梗塞を発症して退陣。戦前は早くから加工貿易立国論を唱えて満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られた。敗戦直後の昭和20年、戦前からの持論・科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。第1次吉田茂内閣では大蔵大臣。第1次鳩山内閣通商産業大臣。昭和31年12月には岸信介と過酷な総裁選を経て内閣総理大臣に指名される。内閣発足直後に全国10ヵ所の遊説行脚を敢行、帰京した直後に自宅で倒れる。2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断から潔く退陣。在任65日だった。国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した戦後の日本国憲法唯一の首相として知られる。後任の総理には総裁選で争った外務大臣岸信介が就任。昭和34年中華人民共和国を訪問。石橋・周共同声明を発表。35年、大陸中国との貿易が再開。この声明が後の田中角栄内閣での日中共同声明に繋がる。




4 日米開戦に反対した人はいたのか “日米開戦不可ナリ”

 作家・保阪正康氏の主宰する『昭和史を語り継ぐ会』に機関誌があり、ある号に「なぜ皆さんは戦争に反対しなかったのですか」との女子大生の文章が掲載された。(文藝春秋特別版・平成17年08月増刊号P40)これは“戦争批判”を展開したのではなく素朴な疑問だったらしいが、戦争を知らない世代の率直な吐露であろう。定年を過ぎて少しは太平洋・大東亜戦争の内実を知りつつある私でさえ瞑目して考えることがある。この頁では当時の日米対立の観点から当時の潮流に逆らって明確に日米戦争に反対した人に注目、取り上げる。いずれも昭和16年(1941)時点の人物である。陸軍情報将校・小野寺信、陸軍主計将校・新庄健吉、海軍将校・山本五十六、駐日アメリカ大使・ジョセフ・グルーの4人。

この項の参考書
◇正論・平成17年9月特別号『昭和天皇と激動の時代』産経新聞
◇『バルト海のほとりにて』小野寺百合子 共同通信社
◇『昭和天皇独白録』文春文庫
文藝春秋・平成15年12月号『真珠湾騙し討ちの新事実』
◇プレジデント・平成6年3月号『日本人論の傑作を読む』
平成23年復刊
◇『滞日十年』ジョセフ・グルー ちくま文芸文庫

 ページの最後には、1人の代議士と戦後の3人の内閣戦後総理大臣を努めた人物を取り上げる。この4人は明確な反戦論者であり、紹介する書・HPも多いので簡単な略歴と反戦行為にとどめる。略歴は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』参照。
◇小野寺信(おのでらまこと・陸軍少将)明治30年(1897)―昭和62年(1987)
(画像は番組タイトルと昭和60年時の小野寺信

 私が小野寺信の名を知ったのは、NHK特集「日米開戦不可ナリ」なる特集番組である。昭和から平成に移行した2月の建国の日から12本の「NHK特集」が再放送された。「昭和万葉集」などと一緒に12日間、深夜の再放送だった。「日米開戦不可ナリ」は「ストックホルム―小野寺大佐発至急電」とのサブタイトルが付いている。当時のストックホルム駐在武官である小野寺は、同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、そのドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況にあることの正しい情報を得て、日本の英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。(正論「昭和天皇と激動の時代」P278)小野寺は、その情報を匿っていたポーランド愛国主義者、ミハール・リビコフスキー(白系ロシア人を装い「ぺーター・イワノフ」なる名でもあった)などから得ていた。両者とも北欧を拠点に置くスパイ、つまりは情報収集武官である。小野寺は、ルビコフスキーからの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、日本本国へドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると何度も警告した。しかし日本の大本営は小野寺情報を信用せず、ヒトラー一辺倒の大島浩ドイツ大使のベルリン発情報だけを採用し、ついに日米開戦に踏み切る。(なお小野寺、リビコフスキーは昭和60年時、存命だった)リビコフスキーは、大戦中、祖国のために心骨を砕いて働いたのに、ポーランドの共産化のためについに祖国に帰れず、戦後アメリカに帰化、後にカナダに移住した。

 特集番組の中でリビコフスキーは「今日私が生きているのは小野寺のおかげ」と言わしめている。昭和45年の「大阪万博」で劇的に再会し、その後交流が続いた。自分が協力した記録がポーランドの軍事博物館にも現在の防衛庁にも残るのを素直に喜び、小野寺が当時の日本の同盟国のドイツ国防司令部から終始庇い通した恩は、一生忘れるものではないと小野寺夫人に伝えている。(「バルト海のほとりにて」P163)(左記画像・リビコフスキー)

 その『バルト海のほとりにて』は、昭和60年の発行だが、名著ゆえに再版され、このほどインターネットで購入した。この内容によれば著者・小野寺百合子は、武官とはどのような仕事をするのか、そしてその妻の役割はどのようなものなのか、詳細に語っている。武官の責任のうち一番重要なのは暗号書や重要文書の保管。保管してある金庫の管理、外出するときは夫と妻が分けて持ち歩くことや、暗号文書の作成、解読など第三者に任せることのできない難しい仕事を妻が担っていたと、NHK特集番組で、今は亡き小野寺百合子自身が語っている。(画像は小野寺百合子・下)

 次女の大鷹節子氏によれば、小野寺信の情報収集能力が際立っていたのは、ドイツ語・ロシア語・スウェーデン語戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返す。なお単独でスウェーデン国王を介しての和平工作も試みている。この選択は戦後正しかったことが証明されるが、またしても大本営はこの情報を無視。この結果、ソ連は易々と満州へ攻め入り、シベリアに60万人もの日本兵が送られ、大陸に居た100万人もの民間人が、帰国時期に“阿鼻叫喚”とも云える苦しみを味わい、中国残留孤児のような悲劇は今も続いている。

 小野寺情報を握り潰したのは大本営参謀本部の一握りの「奥の院」の参謀だったと大鷹節子氏は言う。(正論「昭和天皇と激動の時代」P279)その参謀とは今もっても解らないらしい。その一つの答えとして、小野寺自身関係なくとも二・二六事件を起こした「皇道派」に属したから見向きもされなかったのだと分析するのは、昭和史に詳しい半藤一利氏である。(「文藝春秋平成17年11月号・日本敗れたり」P288)ことの内容は精査されず、軍の派閥でしかないレッテルを貼って聞く耳を持たないのは、昔も今も変らない日本の国民性なのか。これは今の官僚の世界にも脈々と引き継がれている気がする。大本営の公文書などは、終戦の日に、その多くが焼却されたので確かな証拠はない。それを現在、現代史家が英米などの公文書館で発掘しているのは更に悲しい。しかし“小野寺情報瀬島龍三、上司の梅津美治郎、陸軍大学卒業の序列から、これは忖度・斟酌した結果である。

 小野寺百合子は、著書のあとがきで「滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗しきれるものではない。一片の木片は水に流され消え去る。だがその木片の行動の軌跡は当時認められなかったとは云え、正確に記録に止めてほしい」と謙虚だが(「バルト海のほとりにて」P250)無念さがにじみ出ている。(下記はスウエーデン駐在武官時代の小野寺信)

 小野寺が逸速くキャッチした「ヤルタ会談」とは、連合国3カ国の首脳の会談。1945年(昭和20年)02月行われ、第二次世界大戦後の処理について協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。日本に関してはルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄すなわちソ連の対日参戦を促した。ドイツ降伏の2〜3カ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。小野寺情報の通り、ヤルタ協定に従ってドイツ降伏3カ月後にソ連は日本に宣戦布告。易々と満州へ押し入り無抵抗の日本人に残虐の限りを尽くした。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連軍参戦の翌日に、ここでやっとポツダム宣言受諾を決めた。小野寺情報はなぜ無視されたのか、残念などと言うものではない。私は小野寺信のような優秀で憂国の士が当時の参謀本部に存在していたことが驚きであり、それを生かさないばかりか邪魔者扱いしたドイツ大使館と参謀本部に怒りを覚える。いずれにしても詳しい経緯は「戦争はなぜ早められなかったのか」の章で考察してみたい。

 この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談で中国や朝鮮の帰趨を決定していた。しかし米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。この会談以降アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が始まった。
◇新庄健吉(しんじょうけんきち・陸軍主計大佐)明治30年(1897)―昭和16年(1941)

 大日本帝国陸軍の情報将校・新庄健吉の名を知ったのもNHK特集である。平成03年に放送された「御前会議」(私の「無明庵」で紹介)、75分の番組だった。新庄は軍人と云いながら「主計大佐」で経理を扱う部署の軍人である。大正12年06月陸軍経理学校高等科に入り、卒業後、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部商業科に入る。昭和03年03月経済学部を卒業、大学院に進み経営経済学を学び昭和05年03月修了。同年4月から陸軍被服本廠員となり、翌年03月には陸軍省経理局課員として主計課に勤務。ソ連駐在などを経て昭和15年03月に主計大佐へ進級し、昭和16年01月参謀本部よりアメリカに出張を命ぜられ同年03月、横浜港から日本郵船の「龍田丸」でニューヨークに向かう。偶然乗り合わせたのは、後に報告書を託す陸軍省軍務課の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐だった。岩畔は前項で述べたように「日米諒解案」をアメリカ側と検討することにあった。

 新庄の任務は対米諜報である。アメリカの国力・戦力を調査し日米開戦となった場合の戦争見通しを立てることだった。つまりは諜報・スパイなのだが、ニューヨーク到着以後非合法な活動は行わず一貫して公開情報の収集にあたった。公開されている各種統計等の政府資料から資材の備蓄状況等を割出し、日本との国力差を数字に表すことにあった。諜報が目的ゆえ駐在武官府等の在米陸軍機関では活動しなかった。新庄の身分は三井物産社員である。エンパイアステートビル7階の三井物産ニューヨーク支店内にデスクを置き、仕事を始める。元々アメリカは新庄が調査せずとも世界一の工業生産力を誇っているのは明らかだったが、調査の結果導き出された数字は重工業分野では日本1に対してアメリカ20、化学工業1対3、この差を縮める事は不可能との結論で、この調査結果を帝国陸軍参謀本部に報告書として提出することになる。前述の「御前会議」にも放送当時存命の「秋丸次朗主計大佐」の告白がある。新庄健吉がアメリカ本土で国力差を検討する前に、秋丸中佐が一流学者を集めて、アメリカとの国力差を研究している。ここでも経済戦力の比は20対1と結論が出ていた。秋丸報告と新庄報告は共に昭和16年08月の時点で陸軍・大本営に届いていたことになる。

 新庄の仕事をサポートした当時33歳で三井物産社員だった古崎博は、前述のNHK「御前会議」でも語っている。国力調査の数時データはあくまで公開されている産業情報だったと指摘、(「開戦通告はなぜ遅れたか」P99)三井物産嘱託を装った新庄のデスクには雑誌・新聞・統計年鑑などが堆く積まれていた。新庄はそのころ日本には殆ど無かったIBM社製の統計機を使用した。3カ月足らずで出されたデータは、日米の間には、鉄鋼1対24・石油産出力1対無限・石炭1対12・電力1対5・アルミ1対8・飛行機1対8・自動車1対50・船舶保有量1対2・工業労働力1対5といった格差があり、重工業においては1対20で、弾き出された現実は無残なものだった。このデータは岩畔豪雄に託され、後述するように確かに政府・大本営に報告された。むろんこれが生かされることはなかったのは、小野寺信と同様である。新庄が仕事を終え、ニューヨークを離れるときディナーを開き三井物産社員を労った。前述の古崎博は現役の高級軍人である新庄の「日米開戦があれば必ず日本は負ける」とのスピーチにその場に居た全員が凍り付いてしまったと証言。さらに「数字は嘘をつかないが、嘘が数字をつくる」との寂しげな新庄の表情を忘れないと叙述している。(「前掲書」P146)

 敗戦後、アメリカから「日本の戦争経済力」を調査する専門家の調査団が来日した。無論日本に戦争する国力は限定的なものだったと結論づけた。何も利益をもたらさなかった新庄健吉の報告書は陸軍省に保管されていて、その正確な分析データはアメリカの調査団の目に止まり、こんな立派なレポートがありながら「何故アメリカに宣戦」したのか、と呆れ返ったとの戦勝国の報告がある。(「前掲書」P178)渡米から3カ月働きづめだった新庄は体調を崩す。昭和16年10月頃にワシントンにある駐米陸軍武官府に拠点を移すが更に病状は悪化、11月にワシントン市にあるジョージタウン大学病院に入院する。然し12月4日急性肺炎を併発し44歳で呆気なく死ぬ。

 新庄の葬儀は何とワシントン時間の12月07日、日本時間では12月08日にあたる。大日本帝国海軍の戦力を以ってハワイ真珠湾を攻撃した日だった。アメリカへの宣戦布告が遅れ「トレスチャラク・アタック」、日本語の「騙し討ち」は、現在でさえ「リメンバー・パールハーバー」と言われ続けている。この事実は、太平洋・大東亜戦争に詳しくない者にもあまりに有名である。ワシントンにいた駐米大使の野村吉三郎がコーデル・ハル国務長官最後通牒となる「通告文」を手渡したのは、ワシントン時間の昭和16年12月07日午後02時20分のことで、午後01時に手交の筈が1時間20分も遅れ、真珠湾攻撃から55分も経過した後だった。この日本外交史上最大の汚点は、戦後すぐの昭和21年04月に外務省に調査委員会ができた。だが真相が明らかになれば、日本では外務省の怠慢、アメリカでは「宣戦布告があった」事実を恐れ、双方の都合で責任はうやむやになった。(「昭和史の論点」P167)その証拠に当時の大使館の井口貞夫参事官も奥村勝蔵書記官も共に外務次官や大使に栄転しているのである。(「昭和史の謎を追う・上P380)これまでは、その原因は大使館職員である一等書記官奥村の怠慢で外務省からの文書を英語に翻訳・浄書するのが遅れたことが定説である。外務省は平成06年(1994)にもなって「通告文遅延」の責任が外務省にあるのを認めた。何と真珠湾攻撃から53年目の謝罪である。

 この日の推移に前述の新庄健吉の葬儀が深く関わっていた、とするのが作家・斎藤充功氏の説である。(「文藝春秋・平成15年12月号」P142)新庄の葬儀はワシントン市内のバプテスト教会で執り行われたが、この葬儀に磯田三郎駐米陸軍武官以下陸軍将校はもとより、複数の大使館職員や野村吉三郎・来栖三郎両大使が参加しており、その葬儀は現地時間で午後から行われ来栖・野村大使らは葬儀が終ってから国務省に向かった。ハル国務長官最後通牒を手渡したのは午後02時20分、1時間20分の遅れだった。新庄家に残された『新庄健吉伝』には、当時大使館で条約担当の松平康東(まつだいらこうとう)一等書記官も葬儀に出席、その日の推移が語られている。(「前掲書」P146)

<葬儀に同席した松平康東一等書記官は「葬儀は短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい。と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。その日の午後1時には「国交断絶のやむなきに至った」旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかとノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。その時「ハワイの真珠湾を日本が攻撃中」の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに「葬儀の中止」を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気を揉んだことはありませんでした。葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省に向け、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して日本の最後通告を伝えたのですが、ハルが「無通告の奇襲攻撃」と激怒したのも当然です。しかし実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした>

 宣戦布告が遅れたのはこの新庄の葬儀の出席が原因だと斎藤氏は分析。だが、この説が弱いのは、又聞きであること。『新庄健吉伝』へキリスト教機関誌「原始福音」から引用した著者・稲垣鶴一郎は、旧ソ連の収容所で近衛文麿の長男・文隆から聞き、文隆は松平康東から聞いた。さらに戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には「開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり、故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」(「前掲書」P150)と記されている。宣戦布告通告の遅れは、決着済みだが斎藤充功氏は、なぜ葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、なぜ野村・来栖両大使が参加したのか、松平が告白したその機関誌の対談記録をなぜ関係者は、永久部外秘扱いにするのかと問う。葬式の牧師の長いメッセージも「騙し討ち」を演出したかったアメリカ側の謀略の匂いさえ窺え(「開戦はなぜ遅れたのか」P60)新庄健吉の死の原因さえ謎であると忖度・斟酌する。

 新庄から報告書を託された岩畔豪雄に関しては一般に手に入る資料は少なく、陸軍中野学校創設に関わった情報戦の第一人者として昭和15年から16年の日米交渉の段階を著わす本に出てくる。現在岩畔の関係者の制作かも知れないが「イワクロCOM」というHPに詳しい。「昭和天皇独白録」(文庫版P71)にも日米交渉に岩畔大佐が関わっていることが記されている。岩畔は通称「謀略課」に籍を置く情報戦の第一人者だった。(「開戦はなぜ遅れたのか」P76)岩畔は自ら近衛総理、外務省、陸軍省参謀本部海軍省、海軍軍令部、宮内省と日本を動かすありとあらゆる力の源に足を運んで“新庄レポート”を報告した。このことは「大本営陸軍機密日誌」でも確かめられる。参謀本部は、岩畔にその後の一切の宮中への参内を禁止した。「親米的な意見は口に出すな」だった。情報将校の報告などエリート軍人にとっては、その内容より組織の人事、序列意識が優先され、採用されることがなかった。このことは小野寺信にも新庄健吉にも国民にも取り返しのつかない不幸だった。
山本五十六(やまもといそろく・海軍大将、死後元帥)明治17年(1884)04月―昭和18年04月

 山本五十六は太平洋・大東亜戦争を語るとき、海軍だけでなく軍人として最も語られることの多い人物。戦争初期の功労者としても悲劇的軍人としても書物・映画などで一番多く語られている。山本は、大正8年(1919)駐米武官となり、ハーバード大学に留学、大正14年(1925)再度駐米武官となる。昭和4年(1929)ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員として参加。昭和09年(1934)「ロンドン海軍軍縮会議」予備交渉の海軍側首席代表となる。昭和11年(1936)海軍次官。12年米内光政(よないみつまさ)海軍大臣もとで次官に留任するが、昭和14年(1939)山本の身を暗殺から守るため米内の意向で連合艦隊司令長官となる。次官当時からの懸案事項の「日独伊三国軍事同盟」に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期、戦艦「大和」の建造に反対、日米開戦には最も反対していた。昭和15年(1940)海軍大将に昇格する。しかし反戦の意向は実らず、却って昭和16年(1941)12月、真珠湾攻撃を命令することになり日米は開戦となる。昭和18年(1943)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊戦闘機に撃墜され死ぬ。山本の死は一ヶ月以上秘匿されることになる。真珠湾攻撃成功から半年後の昭和17年06月のミッドウェイ作戦失敗とこの山本の戦死が暫く秘匿されたのは、思えば日本の戦争を最もよく象徴しているとさえ云える。昭和17年06月以降の大本営発表は殆ど嘘だった。この山本五十六の戦死の時点で終戦すべきだったと思うが、今なら何とでも云える。(TV画像は墜落機)

 山本の秘書を勤めていた実松譲(さねまつゆずる・平成08年死)があるとき執務室の雑談で「君、アメリカと戦争をはじめようと本気で考える連中がいるんだね」とあきれたようにつぶやいていた山本の思い出を語っている。(「昭和史忘れ得ぬ証言者たち」P66)つまり山本は、日本がアメリカと戦争するような国力はないとの数字と事実を早くから判っていた。後に解ることだが大正08年の駐在武官のときから既に山本はアメリカから徹底的に監視されていたらしい。日本海軍が本当に戦うのなら「ホワイトハウスまで追い詰めなければならない」との友人への手紙は、開戦後反日キャンペーンに使われ、真珠湾攻撃の「騙し討ち」と共にアメリカ市民から恨まれた。「そこまで日本の国力は無く、アメリカと戦争などすべきではない」との真意を逆説的に取られて利用された。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P107)駐在武官の仕事の一つは情報収集である。山本は当時のデトロイトやシカゴの重工業を目の当たりにして、肌身でアメリカの国力を認識していたのが事実。

 陸軍には「統制派」「皇道派」の派閥対立があって、その暗闘が日本を次第に破滅に追い込んでゆくのだが、海軍にも「艦隊派」「条約派」の対立があった。艦隊派とは、日露戦争の勝利以来の伝統的な漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦を“金科玉条”としてきた。つまり太平洋を渡ってくるアメリカ艦隊に対し、駆逐艦や潜水艦などの小部隊で襲撃を繰り返してその戦力を減らす。最後に日本近海で待ち受け、戦艦を中心とした主力部隊が艦隊決戦で勝負をつける作戦である。(「ドキュメント太平洋戦争への道」P341)つまりは「日露戦争」の勝利の公式から一歩も出ていないことになる。山本五十六は「条約派」を支持して軍縮を遵守し、無用な衝突をするべきでないとの立場である。私は山本五十六には大きな歴史を俯瞰する度量が備わっていたと思う。それはやはり二度に渡る駐在武官時代の冷徹な観察眼だろう。特に大正08年の武官生活は「第一次世界大戦」の戦況と航空機の発達を理解していたことである。(「太平洋戦争の失敗・10のポイント」P117)「日本の国力でアメリカ相手の戦争も建艦競争もやり抜けるものではない」との告白はそれを物語る。

 それまで定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率5・5・3は、大正11(1922