個人の尊厳

当時の毎日新聞には「日本政府は占領二カ月間には基礎的な民主主義的改革を指向する動きはほとんどみせなかった」と伝えています。人々は衣食住の問題に追われてそれどころではなかったと思いますが、戦前の日本には、個人の尊厳はまったく存在していませんでした。民主主義にいたっては、未だかつてどのような形式にしろその経験がなかったからです。だから、日本では戦争を積極的に指導した政府の人々の間では、日本を戦争あるいは敗北にみちびいたことにたいして、またこの状況に陥れたことについて、すべてを投げ打って協力をした国民の人々の前に詫びるというような気配はほとんど見受けられませんでした。しかも「一億総懺悔」のように「国民が頑張らなかったからだ、あやまるなら国民の方があやまれと」いわんばかりのことを政府は発表します。
天皇がいる宮城前に土下座をして頭を垂れた姿を計らずも下記の写真にとられたりしている人々、他に気特のもっていきどこらのなかった健気な民草たちは、政府の人々の眼には、同胞であるより、人的資源の使いのこりとしか映じていなかったということであるのかも知れぬ。
しかし、終戦にいたるまで、言論の弾圧や思想の統制の狂暴な嵐があまりにもながくつづいたために、わが国人の民主主義的傾向は文字どおり仮死の状態にまで立ちいていたことを思えば、しかたがないことである。
日本国民は袋のネズミのようなもので、外から入ってくることもむずかしいが、いざという場合に国外へ亡命することも容易ではないです。今でも離党では犯罪が少なく、戸締りをしない習慣が残っているのはそのためです。日本の外敵といえば、アイヌ、クマソくらいのもので、これらはほとんど日本民族の中にとけこんでしまっています。外界とのつながりがないからです。そして、この四つの島に、世界でも珍しい単一種民族が生ます。いや、日本民族といっても、もとは、海外からの雑多な種族によって構成されているのですが、民族意識が単一で純粋なのです。
アメリカの原爆計画はミッドウェー海戦後の1942年9月、マンハッタン計画により始まり、ポツダム会談の1日前に完成した。ポツダム宣言のなかの「迅速且つ完全なる破壊」とは原爆投下の脅迫でもあった。アメリカ大統領トルーマンは「日本人による許し難い真珠湾攻撃と戦争捕虜殺害であります。野獣を野獣として取り扱わなければならない」として原爆投下に踏み切っている。すでに前年の9月に米英は原爆投下をドイツでなく日本に限定することを決定しています。
トルーマン発言にみられるように、究極の戦略爆撃・無差別殺人として原爆投下には、早期終戦・人命尊重の立て前の裏に、アジア人・日本人への人種主義的差別意識があることは明らかである。さらに政治的背景としては、戦後世界政治においてソ連に優越する地位を得ようとするアメリカの国際的エゴイズムです。

 

 

天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時

◆1989年1月7日 夕刊 特設ニュース面

天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時


 亡くなられた天皇陛下のご生涯は20世紀の幕開けとともに始まり、激動の日本現代史とともにあった。歴代最長の在位期間の、前半の20年は「神聖不可侵」の元首・統治権の総攬(そうらん)者として、後半の40余年は国政の権能を持たぬ「象徴」として--終戦を境に、その地位にも大きな変化があった。
 「人間天皇」となられた戦後、国民はいくつかの機会に陛下の生のお言葉を直接耳にすることができた。しかし戦前に関しては、公布された勅語のほかは、わずかに側近者の日記や回想録を通して、何を語られたかを知るのみである。伝えられた陛下の内なるお言葉を拾い集めてみると、同時期に外に表れた勅語との、あまりのへだたりに驚かざるを得ない。激流に身を置かれた陛下の苦悩と、無謀な戦争に突入した政治の矛盾の一端が浮かび上がってくる。
 戦後の折々のお言葉にも、そのことが長い影を引いているように見える。だが後半生は、その立場上、政治について語られることはなかった。かわって、「人間天皇」のいくつかの側面を国民の前に見せられた。亡き陛下の語録は、そのまま昭和史の断面を物語る。
 (日記、回想録などから引用した言葉は原文のまま。ただし途中省略をしたものもある)
         
 ○満州事変と連盟脱退 「軍は命令きかず残念」
 朕(ちん)内ハ則(すなわ)チ教化ヲ醇厚(じゅんこう)ニシ愈(いよいよ)民心ノ和会ヲ致シ益(ますます)国運ノ隆昌(りゅうしょう)ヲ進メムコトヲ念(おも)ヒ外ハ則チ国交ヲ親善ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普(あまね)ク人類ノ福祉ヲ益サムコトヲ冀(こいねが)フ
  --3年11月10日 大正15年12月、大正天皇崩御により、摂政裕仁親王が25歳で天皇に。『書経』の「百姓昭明、万邦協和」をとり「昭和」と改元。即位礼が京都御所で行われ、新時代を待望する勅語が出された。
    ◇
 お前の最初に言ったことと違うぢゃないか
 田中総理の言ふことはちっとも判(わか)らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ
  --4年6月27日 前年6月、満州(現中国東北地方)で関東軍の一部の謀略によって張作霖爆殺事件が起きた。軍の出先の独走を懸念された天皇は、田中義一首相に関係者の厳重処罰を求められ、同首相もこれを約束したが、陸軍の強い反対で軍法会議を開けず、警備上の責任という軽い行政処分にとどめた。白川義則陸相からこの処分の報告を受けた天皇は、語気強く田中首相を叱責(しっせき)され、さらに退席されたあと、鈴木侍従長に首相への不信感を述べられた。田中首相はこれを聞いて「ご信任を失った」と総辞職する。(原田熊雄述「西園寺公と政局」)
    ◇
 自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和のため努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令をきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいて列国の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることとなってはまことに相済まぬ。9000万の国民と皇祖皇宗から受け継いだ祖国の運命は、今自分の双肩にかかっている。それを思い、これを考えると、夜も眠れない
  --6年9月 同月18日、関東軍は柳条湖で満鉄爆破事件を起こし、これを中国軍のしわざだとして軍事行動を開始、満州事変が始まった。若槻内閣の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は占領地を拡大していく。天皇はこのころ、軍の出先の独断専行を心配し、侍従兼内大臣府御用掛岡本愛祐氏に憂慮の念を示された。(別冊文芸春秋天皇白書」)
     ◇
 満州ニ於(おい)テ事変ノ勃発(ぼっぱつ)スルヤ自衛ノ必要上関東軍将兵ハ……各地ニ蜂起(ほうき)セル匪賊(ひぞく)ヲ掃蕩(そうとう)シ克(よ)ク警備ノ任ヲ完(まっと)ウシ……勇戦力闘以(もっ)テ其(その)禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉(よみ)ス……
  --7年1月8日 満州事変の翌正月、天皇関東軍の活躍をたたえ、激励の勅語を出された。
    ◇
 奉天を張学良に還(かえ)してしまへば問題は簡単ではないか。一体陸軍が馬鹿(ばか)なことをするからこんな面倒な結果になったのだ
  --7年3-5月 同年3月1日、関東軍の武力支配によって満州国建国。日本の行動はアメリカを中心に各国の反発を招いた。天皇は国際世論の動向を気にし、私語された。(「西園寺公と政局」)
    ◇
 首相は人格の立派なるもの/現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、1に首相の人格如何(いかん)に依(よ)る……/ファッショに近きものは絶対に不可なり/憲法は擁護せざるべからず。然(しか)らざれば明治天皇に相済まず/外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること……
  --7年5月19日 ロンドン軍縮問題・満州事変などをきっかけに、右翼・軍の青年将校らの運動が活発化。この年、海軍青年将校の一団が犬養毅首相を射殺した(5・15事件)。天皇侍従長を通じて元老西園寺公望に、後継内閣についての具体的な希望を伝えられた。西園寺公は結局、陸軍の反政党内閣論をいれて斎藤実海軍大将を首相に推薦。政党内閣はわずか8年で崩壊し、太平洋戦争後まで復活しなかった。(「西園寺公と政局」)
    ◇
 連盟に対して脱退を通告する詔勅の中には、「日本が連盟を脱退することは頗(すこぶ)る遺憾である」との意、「連盟の精神とする世界平和へのあらゆる努力には、日本もまた全く同様の精神を以て協力する」との意、以上の2点は必ず含ませるやうに
  --8年3月8日 この年2月、国際連盟は日本軍の満州撤兵を勧告する決議を採択。斎藤内閣はこれを機に連盟脱退の方針を決定した。その折、天皇は国際世論を心配し、詔勅の表現について内大臣に指示された。3月、日本は正式に脱退を通告、国際的に孤立化の道を歩む。(「西園寺公と政局」)
    ◇
 一旦(いったん)参謀総長が明白に予が条件を承はり置きながら、勝手に之(これ)を無視したる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも穏当ならず
  --8年5月10日 関東軍は、抗日軍掃討のため、この年4月、満州国の領域を越え華北に侵入した。この時は天皇の意向もあって撤退したが、5月に再び華北に侵入。これに対して天皇は強い不満を示された。中国軍との停戦協定で戦闘は収まったが、軍部はその後も華北進出の機会をうかがう。(本庄繁「本庄日記」)
    ◇
 可愛想ナ事ヲシタ、何ゼ、斯(かか)ル保護鳥ヲ射殺セシカ。自分ハ食セヌカラ、可然(しかるべく)処分セヨ
  --9年1月3日 皇太子誕生祝いとして予備役の将軍から1つがいのタンチョウヅルが献上されたが、天皇は喜ばれなかった。(「本庄日記」)
    ◇
 克く御勅諭の精神を体して、軍を統率し、再び5・15事件の如(ごと)き不祥事件なからしむる様伝へよ
  --9年1月23日 日ごろ軍の統率の乱れを気にされていた天皇は、本庄繁侍従武官長を呼び、新任の林銑十郎陸相に伝えるよういわれた。(「本庄日記」)
    ◇
 軍部の要求もあることであるから、或(あるい)はその辺で落付けるよりほか仕方があるまい。しかしながらワシントン条約の廃棄は、できるだけ列国を刺激しないやうにしてやってもらひたい。(ロンドン海軍軍縮会議が)決裂するにしても、どうか日本が悪者にならないやうに考へてくれ
  --9年8月24日 この年10月からロンドン海軍軍縮会議の予備会議が、翌年には本会議が予定されていたが、海軍には米・英・日の主力艦比を5・5・3と定めた大正11年のワシントン条約の廃棄を求める強硬意見があった。天皇は、報告した岡田啓介首相に対して、注意を与えられた。日本はこの年12月にワシントン条約を廃棄、11年1月にはロンドン会議も脱退して軍拡の道を進む。(「西園寺公と政局」)
             
 ○天皇機関説 「機関説でいいではないか」
 天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか
  --10年春 憲法学者美濃部達吉博士の天皇機関説が「反国体的」だと貴族院で非難され、政治問題に。機関説は、統治権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関、とするものだったが、軍・右翼は天皇統治権の主体であるとして、機関説を排撃。岡田内閣もこれに押され、「国体明徴」の声明を出した。これを機に、社会主義だけでなく自由主義まで反国体的な思想として否認され出し、一方で天皇の神格化が進む。天皇ご自身は、岡田首相に機関説を是認する感想をもらされていた。(「岡田啓介回顧録」)
    ◇
 自分の位は勿論(もちろん)別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なき筈(はず)なり、従て機関説を排撃せんが為(た)め自分をして動きの取れないものとする事は精神的にも肉体的にも迷惑の次第なり
  --10年3月11日 (「本庄日記」)
    ◇
 若(も)し思想信念を以て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如きも覆へさざるを得ざるが如きことゝなるべし。……結局、思想と科学は平行して進めしむべきものと想(おも)ふ
  --10年4月25日 (「本庄日記」)
   ◇
 君主主権説は、自分からいへば寧(むし)ろそれよりも国家主権の方がよいと思ふが、一体日本のやうな君国同一の国ならばどうでもよいぢゃあないか……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか。あゝいふ学者を葬ることは頗る惜しいもんだ
  --10年5月23日 当時、鈴木貫太郎侍従長は、西園寺公の秘書原田に、天皇が美濃部を擁護されている話をもらした。(「西園寺公と政局」)
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 この頃(ごろ)の天気は無軌道なるが、政治も亦(また)然り
  --10年9月26日 天皇は、軍部での下克上の風や、軍部にひきずられる政府の態度に不満を抱かれ、側近の前で独り言。(「本庄日記」)
            
 ○2・26事件 「速やかに鎮圧せよ」「朕が首を締むる行為」
 とうとうやったか……まったくわたしの不徳のいたすところだ
  --11年2月26日 陸軍内の派閥対立もからみ、北一輝の思想的影響を受けた陸軍の青年将校が、約1400人の兵を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを殺害した(2・26事件)。国家改造と軍部内閣をめざすこのクーデターは失敗し、4日間で鎮圧された。しかし、事件後成立した広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備政策など軍の要求をいれることによってかろうじて組閣、以降の各内閣に対する軍部の介入の端緒となった。就寝中だった天皇は、当直侍従の甘露寺受長から、事件の一報を知らされ、沈痛な声で語られたという。(甘露寺受長「天皇さま」)
    ◇
 速やかに暴徒を鎮圧せよ
  --11年2月26日 天皇は事件発生当初から、決起部隊を「反乱軍」「暴徒」ときめつけ、厳しい態度で臨まれた。岡田首相が渦中にあって消息不明のため急に首相臨時代理に任命された後藤内相に対して、早期鎮圧を指示。鎮圧のため自ら陣頭指揮をとる、とまで口にされた。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 朕ガ股肱(ここう=最も頼みとする部下)ノ老臣ヲ殺戮(さつりく)ス、此(こ)ノ如キ兇暴(きょうぼう)ノ将校等(ら)、其精神ニ於テモ何ノ恕(ゆる)スベキモノアリヤ
                 
 朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉(ことごと)ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ
  --11年2月27日 反乱部隊は君国を思う精神に出たもの、と本庄侍従武官長が述べたのに対しても、天皇は容赦されなかった。(「本庄日記」)
    ◇
 自殺スルナラバ勝手ニ為(な)スベク、此ノ如キモノニ勅使抔(など)、以テノ外ナリ
  --11年2月28日 川島義之陸相らは事件収拾策として、天皇の勅使を得たうえ、反乱将校たちが謝罪の自決をする形をとりたい、と申し出たのに対し、天皇はこれをはねつけ、鎮圧をちゅうちょする軍首脳を叱責された。(「本庄日記」)
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 近来、陸軍ニ於テ、屡々(しばしば)不祥ナル事件ヲ繰リ返シ、遂(つい)ニ今回ノ如キ大事ヲ惹(ひ)キ起スニ至リタルハ、実ニ勅諭ニ違背シ、我国ノ歴史ヲ汚スモノニシテ、憂慮ニ堪ヘヌ所デアル。就テハ、深ク之ガ原因ヲ探究シ、此際部内ノ禍根ヲ一掃シ、将士相一致シテ、各々其本務ニ専心シ、再ビ斯ル失態ナキヲ期セヨ
  --11年3月10日 2・26事件の収拾後、天皇は寺内寿一新陸相に、強く粛軍を指示された。また後継内閣の重要ポストには、軍部に引きずられない人物を、と注文されたのだが……。(「本庄日記」)
                                    
      
 ○日中戦争 勅語「東亜の平和確立せん」
 中華民国深ク帝国ノ真意ヲ解セス濫(みだり)ニ事ヲ構ヘ遂ニ今次ノ事変ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾(うらみ)トス今ヤ朕カ軍人ハ百艱(かん)ヲ排シテ其ノ忠勇ヲ致シツツアリ是(こ)レ一ニ中華民国ノ反省ヲ促シ速(すみやか)ニ東亜ノ平和ヲ確立セムトスルニ外ナラス
  --12年9月4日 この年7月7日、北京郊外盧溝橋(ろこうきょう)で日中両国軍が衝突。近衛文麿内閣は不拡大方針を声明したが現地軍は軍事行動を拡大、日中戦争が始まる。天皇は、戦争開始後間もない第72帝国議会の開院式で、戦争は中国側の責任、とする勅語を出された。
    ◇
 元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝(湖)の場合といひ、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といひ、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきやうな卑劣な方法を用ひるやうなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思ふ……今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん
  --13年7月21日 この年7月15日、ソ満国境で日ソ両軍が衝突、日本側は張鼓峰を占領した。軍部はさらに対ソ武力行使の許可を求めたが、天皇は反対され、板垣征四郎陸軍大臣を強くたしなめられた。同年8月10日、停戦協定が成立。(「西園寺公と政局」)
                                    
      
 ○対米英開戦 「帝国自衛へ決然」宣戦詔書
 我国は歴史にあるフリードリッヒ大王やナポレオンの様な行動、極端に云(い)へばマキァベリズムの様なことはしたくないね、神代からの御方針である八紘一宇(はっこういちう)の真精神を忘れない様にしたいものだね
  --15年6月20日 この前年の9月、ドイツがポーランドに宣戦を布告、第2次世界大戦が始まった。そして15年に入り、ドイツがヨーロッパ各地を征服し、6月にパリを占領すると、陸軍を中心に、ドイツと結んで南方に進出しようとの空気が高まってきた。天皇はこれに批判的な感想を、木戸幸一内大臣に語られた。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 今回の日独軍事協定については、なるほどいろいろ考へてみると、今日の場合已(や)むを得まいと思ふ。アメリカに対して、もう打つ手がないといふならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構へる場合には海軍はどうだらうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、といふことをきいたが、大丈夫だらうか……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだらうか。かくの如き場合が到来した時には、総理も、自分と労苦を共にしてくれるだらうか
  --15年9月16日 この日、日独伊3国軍事同盟の締結が閣議で決定された。これを背景に日本は北部仏印進駐を開始する。翌年4月、日ソ中立条約を結び、悪化しつつあった対米関係を調整しようとしたが、3国同盟は日米の対立を一層深刻化させていく。天皇は近衛首相に、対米戦争の不安を述べられた。(「西園寺公と政局」)
    ◇
 自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂(いわゆる)火事場泥棒式のことは好まないのであるが、今日の世界の大変局に対処する場合、所謂宋じょうの仁^(そうじょうのじん=無用の情け)を為すが如き結果となっても面白くないので、あの案は認めて置いたが、実行については慎重を期する必要があると思ふ
  --16年2月3日 ヨーロッパにおけるドイツの攻勢で英仏が後退したのを機に、日本は南方進出を企てた。「対仏印及泰国施策要綱」について、天皇は木戸内大臣に感想を述べられた。このあと、6月に大本営政府連絡会議で「南方施策促進」を決め、7月末、南部仏印に進駐。アメリカは対日石油禁輸などで対抗、日米関係は決定的に悪化した。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、なんら各国に影響するところはない、作戦上必要だから進駐致しますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話と反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないで困る
  --16年8月5日 天皇東久邇宮と話された折、軍部への不満を語られた。(東久邇稔彦「東久邇日記」)
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 汝(なんじ)は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として「事変は1ケ月位にて片付く」と申せしことを記憶す。然るに4ケ年の長きにわたり未(いま)だ片付かんではないか。支那の奥地が広いと言ふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信あって3ケ月と申すか
  --16年9月5日 ABCD(米英中蘭)包囲陣の圧迫の中で、「死中に活を求めるしかない」との主張が日増しに強まった。この前前日の3日、大本営政府連絡会議は、10月上旬までに対米交渉がまとまらない場合には対米英蘭戦に踏み切るという「帝国国策遂行要領」を決定。天皇は翌6日の御前会議を前に陸海軍総長を呼び、「外交を先行させよ」と表明された。「南洋方面は3ケ月ぐらいで片付く」という杉山元参謀総長に対して、その楽観的な見通しを厳しく批判された。(近衛文麿「失なはれし政治」)
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 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ……わたしは平常この御製を拝誦(はいしょう)して、大帝の平和を念ぜられたご精神に習いたいとおもっている。それにもかかわらず、このような事態に立ちいたったのは、まことに遺憾に堪えない
  --16年9月6日 「帝国国策遂行要領」を正式決定した御前会議で、天皇は異例の発言をされ、明治天皇の歌に託して気持ちを語られた。一同は粛然と頭を垂れたという。このあと日米交渉は、妥協を見いだせないまま10月上旬を迎えた。なお交渉を継続しようとする近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸相が衝突して近衛内閣は総辞職。9月6日の決定の白紙還元を条件に、木戸内大臣の推挙によって東条内閣が成立したが、結論は同じだった。11月末、アメリカはハル・ノートによって、大陸・仏印からの日本軍全面撤兵、3国同盟の死文化などを要求、交渉は絶望的となった。(甘露寺受長「天皇さま」)
    ◇
 日米交渉に依る局面打開の途を極力尽すも而(しか)も達し得ずとなれば、日本は止(や)むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね……事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進めるは止むを得なからうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰(もら)ひたい
  --16年11月2日 大本営政府連絡会議はこの日、「外交による打開のメドを12月初旬とする。決裂のときは直ちに開戦」との方針を決め、天皇に報告した。(東京裁判・東条尋問録)
    ◇
 時局収拾ニ「ローマ」法皇ヲ考ヘテ見テハ如何(いかが)カト思フ
  --16年11月2日 平和解決を求めて、東条首相らにいわれた。(杉山元「杉山メモ」)
    ◇
 此ノ様ニナルコトハ已ムヲ得ヌコトダ。ドウカ陸海軍ハヨク協調シテヤレ
  --16年12月1日 この日、御前会議で開戦を正式決定。天皇は陸海軍両総長に要望された。(「杉山メモ」)
    ◇
 米英両国ハ……平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセムトス剰(あまつさ)ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ……遂ニ経済断交ヲ敢(あえ)テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ……帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為(ため)決然起(た)ツテ一切ノ障碍(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ
  --16年12月8日 対米英宣戦の詔書が出された。
            
 ○戦局悪化 原爆…「戦争継続は不可能」
 次ぎ次ぎに起った戦況から見て、今度の戦争の前途は決して明るいものとは思はれない。統帥部は陸海軍いづれも必勝の信念を持って戦ひ抜くとは申して居るけれど、ミッドウェイで失った航空勢力を恢復(かいふく)することは果して出来得るや否や、頗る難しいと思はれる。若し制空権を敵方にとられる様になった暁には、彼の広大な地域に展開して居る戦線を維持すると云ふことも難しくなり、随所に破綻(はたん)を生ずることになるのではないかと思はれる
  --18年3月30日 日本軍はハワイの真珠湾奇襲攻撃に続いて、香港、マニラ、シンガポールを次々と陥れた。戦局はしかし、17年6月のミッドウェー海戦の大敗北を境に転換し始め、同年後半からアメリカの本格的反攻が開始された。そのころ天皇は、木戸内大臣に戦争の悲観的な見通しを述べられている。(「木戸幸一関係文書」)
    ◇
 何(いず)レノ方面モ良クナイ。米軍ヲピシャリト叩(たた)ク事ハ出来ナイノカ……ソウヂリヂリ押サレテハ敵ダケデハナイ第三国ニ与ヘル影響モ大キイ。一体何処(いずこ)デシッカリヤルノカ。何処デ決戦ヲヤルノカ
  --18年8月5日 杉山参謀総長が各方面の戦況を報告したのに対して。(「杉山メモ」)
    ◇
 自分が帝都を離るゝ時は臣民殊に都民に対し不安の念を起さしめ、敗戦感を懐(いだ)かしむるの虞(おそれ)ある故、統帥部に於て統帥の必要上、之を考慮するとするも、出来る限り万不得止(ばんやむをえざる)場合に限り、最後迄(まで)帝都に止(とど)まる様に致し度(た)く、時期尚早に実行することは決して好まざるところなり
  --19年7月26日 戦局の悪化に伴い、天皇の安全と指揮系統維持のため大本営移転の話が出た。小磯国昭首相がこれを相談すると、天皇は反対された。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった
  --19年10月25日 この日、「神風特攻隊」の第1陣として、フィリピン・レイテ沖で海軍の敷島隊が出撃。天皇が海軍軍令部総長に語られたお言葉が、無電で前線各地に伝えられた。
    ◇
 鈴木の心境はよく分る。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない……頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい
  --20年4月5日 日本の敗北が必至となって、戦争終結の任務を期待された鈴木貫太郎内閣が成立する。この時、天皇は大命降下の際の慣例を破り、辞退する元侍従長にあくまで組閣を要請された。(藤田尚徳「侍従長の回想」)
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 わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かちたい
  --20年5月中旬 東京空襲の激化で、陸軍が長野県松代につくった大本営天皇を移そうとした。天皇梅津美治郎参謀総長に反対を表明された。(伊藤正徳帝国陸軍の最後」)
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 戦争に就きては……支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、成るべく速かに之を終結せしむることが得策である。されば甚だ困難なることとは考ふるけれど、成るべく速かに戦争を終結することに取運ぶやう希望する
  --20年6月20日 イタリアに続き、5月にドイツも無条件降伏。鈴木内閣はソ連を仲介とする和平工作ソ連は2月のヤルタ会談で対日参戦を米英に密約しており、工作は不首尾となるが)を進めることになった。それを報告した東郷茂徳外相に、天皇は賛成された。(東郷茂徳「時代の一面」)
    ◇
 此種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々(いよいよ)不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時機を逸することはよくないと思ふ、又(また)条件を相談しても纒(まと)まらないではないかと思ふから成るべく早く戦争の終結を見るやうに取運ぶことを希望する
  --20年8月8日 7月26日、米英中3国の名で日本軍隊の無条件降伏を勧告するポツダム宣言が出された。8月6日、米軍によって広島に原子爆弾が投下された。東郷外相がこの調査結果を天皇に報告、「戦争終結の転機」と述べると、天皇も同意された。同じ8日、ソ連が参戦、9日には長崎にも原爆が投下され、ポツダム宣言受諾へと追い込まれる。(「時代の一面」)
                                    
      
 ○終戦の決断 「堪え難きを堪え…」御前会議でポツダム宣言受諾
 本土決戦本土決戦と云(い)ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又(また)決戦師団の武装すら不充分にて、之(これ)が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論(もちろん)、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等(それら)の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而(しか)し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の3国干渉の際の御心持を偲(しの)び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する
  --20年8月10日 9日夜から10日未明にかけ、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が開かれた。「国体護持」を条件に受諾すべきだとする東郷茂徳外相案と、徹底抗戦論の軍部が対立。鈴木首相に裁断を求められた天皇はためらわず東郷案に賛成し、終戦の決意を述べられた。(「木戸幸一日記」)
   ◇
 それで少しも差支(さしつかえ)ないではないか。仮令(たとい)連合国が天皇統治を認めて来ても人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰(もら)って少しも差支ないと思ふ
  --20年8月12日 政府は御前会議の決定に基づいて連合国にポツダム宣言の条件付き受諾を通告。これに対する連合国側の回答の中に「日本政府の形態は日本国民の自由意思により決められるべきだ」とのくだりがあった。軍部は抗戦論を再燃させたが、天皇はさして意に介されなかった。(「木戸幸一関係文書」)
   ◇
 外に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継(つづ)けることは無理だと考える。国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応(こた)えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣(や)り方に全幅の信頼を措(お)き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
 私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる3国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。
 今日まで戦場に在って陣歿(じんぼつ)し、或(あるい)は殉職して非命に斃(たお)れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚しかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。以上は私の考えである
  --20年8月14日 軍部がポツダム宣言の受諾に最後まで反対したため、この日午前、改めて御前会議が開かれた。阿南惟幾陸相らが終戦反対の意見を述べたあとで、天皇は涙を目にあふれさせ、嗚咽(おえつ)でとぎれとぎれになりながら、最終的に終戦の裁断を下された。(下村海南「終戦秘史」)
  ◇
 阿南、阿南、お前の気持はよくわかっている。しかし、私には国体を護(まも)れる確信がある
  --20年8月14日 御前会議が終わって慟哭(どうこく)する阿南陸相に、天皇は声をかけられた。阿南陸相は15日未明、割腹自殺した。(藤田尚徳「侍従長の回想」)
   ◇
 朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク……惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然(しか)レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
  --20年8月15日 正午、終戦詔書天皇ご自身の声で放送された。(玉音放送
                                    
      
 ○占領下、マッカーサー元帥と会見 「責任、すべて私に」
 戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が1人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか
  --20年8月29日 木戸幸一内大臣に。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした
  --20年9月27日 敗戦によって日本は連合国軍に占領されることになった。8月末から米軍が各地に進駐、9月にはマッカーサーの率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に移され、間接統治の形で占領政策が進められていく。この日、天皇マ元帥を米国大使館に訪問。モーニング姿の天皇と開襟のラフな服装の元帥が並んだ写真は、国民の目に「敗戦」を突きつけた。しかし、マ元帥天皇の真摯(しんし)な態度に感銘を受けたといわれる。元帥は占領政策を遂行するための配慮からも天皇擁護に回る。(「マッカーサー回想記」)
    ◇
 敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等(ら)に責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委(まか)せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい
   --20年9月27日 当時の藤田尚徳侍従長は、外務省がまとめた天皇マ元帥との会見内容を天皇に届けた。天皇が述べられた言葉について、彼我の資料がほぼ一致する。ただこの後、天皇が国民の前で「戦争責任」を語られることはなかった。(「侍従長の回想」)
    ◇
 自分が恰(あたか)もファシズムを信奉するが如(ごと)く思はるゝことが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為(た)めに如斯(かくのごとき)事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於(おい)て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非(あら)ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり
  --20年9月29日 天皇は、木戸内大臣を呼び、「米国側の自分に対する論調が残念だ」と述懐され、自分の真意を新聞記者を通して明らかにするか、あるいはマ元帥に話してみようか、と相談された。木戸内大臣は「弁明するとかえって邪推されるから隠忍された方が」とすすめた。(「木戸幸一日記」)
                                    
      
 ○人間宣言・責任論
   開戦「憲法上、裁可以外に道はない」
   終戦「初めて意見を求められ、所信」
 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
  --21年1月1日 異例の詔書で自ら神格を否定された。「人間宣言」である。GHQは、天皇に対する国民の自由な批判を奨励し、国家と神道の分離を指令していた。
    ◇
 随分と厳しい残酷なものだね、これを、この通り実行したら、いままで国のために忠実に働いてきた官吏その他も生活できなくなるのではないか。藤田に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか
  --21年1月4日 GHQが軍国主義指導者に公職追放令。それを聞いて藤田侍従長に。(「侍従長の回想」)
    ◇
 申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽した。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
 ところで、戦争に関して、この頃(ごろ)一般で申すそうだが、この戦争は私が止(や)めさせたので終った。それが出来たくらいなら、なぜ開戦を阻止しなかったのかという議論であるが、如何(いか)にも尤(もっと)もと聞える。しかし、それはそうは出来なかった。天皇憲法の条規によって行動しなければならない。憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されない。だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策をたて、これを規定に遵(したが)って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
 だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分れて対立し、議論が果しもないので、鈴木が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰(だれ)の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予(か)ねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。しかし、この事は、私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている
  --21年2月 天皇の戦争責任を追及する議論を耳にし、藤田侍従長に心情を語られた。(「侍従長の回想」)
                                    
      
 ○象徴・戦後巡幸 「住宅や生活に 困ってないか」
 何年位いるか
 住宅等に不便はないか
 生活には困っていないか
  --21年2月19日 この日の神奈川県を振り出しに、「戦後巡幸」を始められた。皮切りの昭和電工川崎工場で、従業員に短い言葉をかけられ、相手の答えに一つ一つ「あっ、そう」とうなずいて回られた。「戦後巡幸」は以降29年まで、沖縄を除く全都道府県に及んだ。天皇は「直接に国民を慰め、あるいは復興の努力を激励したいと思った」(55年夏の記者会見)と、動機を語られている。
   ◇
 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって、確定されたものである……朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ
  --21年11月3日 主権在民・平和主義・人権尊重の日本国憲法公布。記念式典で天皇勅語を読まれた。天皇の地位は、「日本国・日本国民統合の象徴」に変わる。
    ◇
 ウドン、スイトン、いもなど種々雑多な代用食を食べている
  --22年6月3日 皇居内の御養蚕所で、宮内府記者団の質問に。前年5月19日の「食糧メーデー」では、「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが現れている(プラカード事件)。
    ◇
 広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない
  --22年12月7日 戦後初めて広島入りされた天皇は、市民の前であいさつされた。
    ◇
 国民を今日の災難に追込んだことは申訳なく思っている。退くことも責任を果す1つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のためつくすことが、先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の主旨にそう所以(ゆえん)だと思う
  --23年11月ごろ この年11月、極東国際軍事裁判A級戦犯のうち東条英機元首相ら7人に死刑判決。このころ、退位問題が取りざたされたが、天皇は裁判が終わったころ、ご自分の考えをもらされたという。
    ◇
 新聞、ラジオ、映画であなた方が非常に努力され、日米親善につくしてくれたことを知って喜んでいます。どうかこれからも水泳のためますます努力されるよう望みます
  --24年9月5日 この年8月の全米水泳選手権で数々の世界新記録をつくった古橋広之進選手ら選手団があいさつに訪れたのに対して。
    ◇
 今次の相つぐ戦乱のため、戦陣に死し、職域に殉じ、また非命にたおれたものは、挙げて数うべくもない。衷心その人々を悼み、その遺族を想(おも)うて、常に憂心やくが如きものがある。本日この式に臨み、これを思い彼を想うて、哀傷の念新たなるを覚え、ここに厚く追悼の意を表する
  --27年5月2日 東京・新宿御苑で行われた初めての「全国戦没者追悼式」で。
    ◇
 ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことはまことに喜ばしく……特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に銘すべきであると信じます。……この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを恐れるのみであります。こいねがわくば、共に分を尽くし事に勉(はげ)み、相たずさえて国家再建の志業を大成し、もって永くその慶福を共にせんことを切望してやみません
  --27年5月3日 この年4月、ソ連などを除いて対日平和条約が発効、日本は沖縄を除き占領状態を解かれて独立した。この日、皇居前広場で記念式典が行われ、天皇はメッセージを発表された。退位説を自ら否定されたものでもあった。
                                    
      
 ○親善・和解・ねぎらい
 「不幸な過去、誠に遺憾 繰り返されてはならない」
 カゴの鳥だった私にとって、あの旅行ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う
  --45年9月16日 那須御用邸での宮内記者会との会見で、皇太子時代のご訪欧(大正10年)の思い出を語られた。
   ◇
 空港に着陸以来、貴国民の心の温かさを身にしみて感じております。それは50年前私に示された豊かな温情とまったく変わりがありません。当時私はジョージ5世からいただいた慈父のようなお言葉を胸中深くおさめた次第です
  --46年10月5日 天皇はこの年9月から10月にかけて、かつての対戦国を含むヨーロッパ各国を親善訪問された。バッキンガム宮殿で開かれたエリザベス女王主催の晩さん会で。
    ◇
 長い間どんなにか苦労したことだろう。これから十分休養してくれればいいが……
  --47年2月2日 この年1月24日、グアム島のジャングルで、元日本兵横井庄一さんが「天皇陛下さまからいただいた」小銃を持って発見された。そしてこの日、「恥ずかしながら」と、帰国。テレビでご覧になった天皇は、感想をもらされた。
    ◇
 近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか。
 防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところはまねせず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい
  --48年5月26日 増原防衛庁長官が「当面の防衛問題」について「内奏」した際、天皇からお言葉があったと記者団に紹介。天皇の地位を政府が政治的に利用するものではないか、など、国会で大きな議論になった。田中(角栄)内閣は、皇室への波及を心配し、「国政に関する天皇のご発言はなかった」と“訂正”、増原氏を更迭して事件を処理した。
    ◇
 (真珠湾攻撃について)私が軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定した後に受けていただけなのです。政治的性格の問題や、軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています
 退位については、憲法やその他の法律が認めていない。だから私は、それについては考えたことがありません
  --50年9月22日 訪米を前に皇居で行われた在京外国人記者団との会見で。
    ◇
 私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことがかなえられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、わが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、長く語り継がれて行くものと信じます
  --50年10月2日 天皇はこの年9月から10月にかけ約2週間、アメリカをご訪問。ホワイトハウスでのフォード大統領主催晩さん会で、さきの戦争を「私が深く悲しみとする」と表現された。英文テキストでは「I
 deeply deplore」とより強い表現に訳されて波紋を呼んだが、その率直な心情の吐露は米国民の心を打った。
    ◇
 (ホワイトハウスの晩さん会で「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べられたことについて、それは天皇が戦争責任をお認めになったものか--との質問に)そういう言葉のアヤについては、文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、お答えができかねます
 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ではあるが、やむをえないことと私は思っています
  --50年10月31日 訪米後、皇居で行われた記者会見で。この会見では初めてテレビ録画、録音も認められ、一問一答の模様が茶の間に。発言中「原爆やむをえない」のくだりが問題になったが、天皇はあとで側近に「表現が足りなかったせいもあるが、私の真意が誤解されている」と語られたという。
   ◇
 両国の長い歴史の間には、一時、不幸な出来事もあったけれども(トウ^副首相の)お話のように過去のこととしてこれからは長く両国の親善の歴史が進むことを期待しています
   --53年10月23日 日中平和友好条約の批准書交換のため来日した中国のトウ^小平副首相と会見。トウ^副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの……」と述べたのに対して。
   ◇
 顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。長い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います
   --59年9月6日 韓国の全斗煥大統領が国賓として初めて来日。宮中晩さん会で天皇が植民地時代の過去にどのように触れられるか注目を集めるスピーチだった。
   ◇
 さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙(こうむ)り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も永らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。
 ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の労苦を心からねぎらいたいと思います。……思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います
  --62年10月24日 病気のため沖縄訪問を断念された陛下に代って、皇太子殿下が沖縄県糸満市の沖縄平和祈念堂で読まれたお言葉。
                                    
      
 ○ご長寿・回顧 「皇后がいつも支えてくれた」
 あの宣言(昭和21年元日の「人間宣言」)の第1の目的は御誓文でした。神格とかは2の問題でありました。当時、アメリカその他諸外国の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、それが5箇条御誓文です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものでないことを示す必要が大いにあったと思います。あの詔勅は、日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思いましたので、誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました
 現行憲法の第1条(象徴規定)は国体の精神に合ったことであり、法律的にやかましくいうことではなく、あれでいいと思いました
  --52年8月23日 那須御用邸での会見で。
    ◇
 (この80年間でとくに印象に残る思い出を--との質問に)戦争のことについては、いうまでもないことであります。皇后と一緒に欧米を訪問したことは忘れることができません。しかし一番楽しかったことは、皇太子時代のヨーロッパ訪問です
  --55年9月2日 那須御用邸での会見で。
    ◇
 立憲政治を基礎とするという考えに拘泥しすぎて、戦争を防止できなかったのかもしれない
  --56年4月17日 80歳の誕生日を前に、新聞、放送各社社長との昼食会で、開戦決定のころを振り返られて。「立憲政治を尊重することが私の考え方の基本だったので、自分が本当に決断したのは2度だけ(2・26事件と終戦時)だった」と話されたあとに。
   ◇
 皇后がいつもほがらかで、家庭を明るくしてくれ、私の気持ちを支えてくれたことを感謝している。(最近は)一緒に出かけることが少なくなっているが、これからも、できるだけ、そろって出かける機会を考えていきたい。(新婚当時の思い出は)結婚した年の夏、福島県翁島で、ひと夏を過ごしたこと。モーターボートに乗り、自分で馬車を御して皇后を乗せ、ゴルフ、テニス、スカル、水泳などを楽しんだ
   --59年1月26日 ダイヤモンド婚のご感想。
   ◇
 60年の間に、一番つらいことは、何と言っても第2次大戦の関係のことであります。最もうれしく感じましたことは、国民の努力によって、今日の繁栄を築き上げたことであります
  --61年4月末 在位60年記念式典前の会見で。

南部仏印

>①なぜ日本は絶対に勝てない相手に戦いを挑んだのですか?それとも勝算があったということですか?

ドイツによりフランス本国は潰れてしまいます。そこで仏印は潰れたフランスの植民地だから、これを誰が拾うかわからない。 先ず、第一に資格のあるのはドイツです。フランスのビシー政府を自分のかいらい政府にしているからです。ドイツは今のところ欧州の戦争で手が伸びないが、将来これを取るかもしれない。また、フランスにはイギリスの庇護下にドゴールという政権がある。このドゴール政権が英米仏印管理を依頼したとして、米国が引き受けたということにでもなれば、支那事変はいよいよ永久に解決しない。だから誰が拾うかわからないものなら、一歩を先んじて進駐したのです。当時ドイツが勝つと思っていたんです。だから欧州でイギリス、オランダ、フランスは東南アジアの植民地を顧みる暇はないことをいいこととして天皇曰く「火事場泥棒」を承認したのです。これらの植民地は戦争を継続するために必要なゴム、石油などの重要な資源の産地です。そして南部仏印に侵攻して、これを根拠地として英米と戦争が突入しても、数日でマレー、ジャバの一角に上陸し、これらを攻略する積りであったのです。アメリカは南部仏印を占領するならば重大結果を招くであろうと警告を日本に対して与えていたのです。ところが天皇も東条に説得され「火事場泥棒」を承認してしまったのです。日本の日米開戦のシナリオはすべてドイツがイギリスを下せばアメリカも日本に妥協するという、非常に日本に都合のよい前提で立てられていたのです。

6月3日の独ソ戦の勃発を受けるかたちで7月2日に御前会議が行われた。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオスカンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には南部仏印の進駐を了承される。
当時の外務次官大橋忠一氏は、この決定に対して非常に憂慮します。なぜなら、この決定は当然日本と英米との問に好むと好まぎるにおいて、戦争を捲き起す結果を生ずるからです。
大本営は外務省に対して.進駄に関して仏印当局との交渉の開始を要求します。当時松岡氏は病気引き籠り中であったので、交渉に当ったのは大橋次官です。交渉に先だし大橋氏は大本営当局に対し「南部仏時に進駐することは、米英に対し開戦を覚悟せねばならぬ。その覚悟と準備があるのか」と反問します。大本営当局はこれに対し「独逸と死闘を繰り返しつつある英国は決して進駐に対し挑戦はせぬ。進駐の結果は恐らくシンガポールの防御強化位が関の山である。又アメリカは英国やオランダのため火中の栗は拾わぬであろう」楽観的な態度であった。
つまり、大日本となるためにはバスに乗らねばならぬ、バスに乗るためにはアメリカと一戦を辞せぬという覚悟が必要だ。問題は、独伊が最後に勝つから英米と敵対しても勝馬に賭けた方が得であり、このチャンスを逃すと日本は膨張の機会を失うからです。
11月15日、戦争になった場合の見通しについて大本営政府連絡会議は討議を重ねます。結論として、アメリカを全面的に屈服させることは、さすがの無敵の陸海軍もできないということになる。ではどうやったら戦争を終結できるのか。
一、初期作戦が成功し、自給の途を確保し、長期戦に耐えることができた時
二、敏速積極的な行動で重慶蒋介石が屈服した時
三、独ソ戦がドイツの勝利で終わった時
四、ドイツのイギリス上陸が成功し,イギリスが和を請うた時
とにかくドイツが勝つことをあてにしているんです。ドイツがソ連を叩きつぶし、イギリスが降参したら、さすがのアメリカも戦意を失うだろう、したがって講和に持ち込むチャンスが出てくる。だからそれまではつらいだろうが長期戦になろうと頑張ろうじゃないかということです。


>②もし日本が合衆国及日本国間協定ノ基礎概略(Outline of Proposed Basis for Agreement Between the United States and Japan)を受け入れて開戦を回避する選択をしていたら今の日本はどうなっていますか?
11月5日、帝国陸海軍は天皇の裁可を受けて対米戦の作戦命令を発令し、ハワイ真珠湾を奇襲する機動部隊が択捉島単冠湾の基地に集結を開始する。この時以来、作戦準備を推進する上での時間稼ぎとしての意味しか持たなくなっていた。真珠湾奇襲の機動部隊は11月26日の朝、則ちハル・ノート受諾の2日前に択捉島を出発している。

>③日本は1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を決定しましたが、なぜこのタイミングだったのでしょう?また、そのタイミングは適切でしたか?

8月14日早朝、米国磯は大量のパンフレットを東京に投下します。これには今までの経過が印刷されていて、日本国民は、政府が隠していたことを知ったのである。ポツダム宣言が外務省で短波受信された翌28日、戦争推進に都合の悪いものは削除されたり、改竄して各新聞紙上に発表されていた。
8月14日早朝のことを木戸は、次のように述べています。
「私の補佐官がパンフレットの一枚を拾ったと言って私のところに持って来た時、私は起こされたばかりで、朝食を済ましていなかった。このパンフレットは東京一帯にばらまかれ、その一部は宮城の中の庭にも落ちた。情勢は重大であった。軍人は降伏計画について何も知らなかった。彼等がそのパンフレットを見たら何が起こるか分らないと思った。この状況に驚いた私は宮城に急行し、天皇に拝謁を仰せつかった。8時30分頃であった。私は天皇に首相を謁見せられるよう奏請した……」
天皇は早速事態の急を知り、鈴木に伺候するよう命じた。首相は木戸が天皇に拝謁している間に、宮城に到着していた。木戸は鈴木に状況を説明し、最高戦争指導会議を開く準備があるかどうか尋ねた。
木戸は、「……首相は垂高戦争指導会議を開くことは不可能である。それは陸海軍の両方が降伏について考慮する時間をもっとくれと要求しているからであると答えた。ここで、私は首相に緊急処置を講じなければならないと言った。私は戦争を終結に導くため、閣僚と最高戦争指導会議の合同会議を開くことを提案した。その後、首相と私は天皇のところに行き、そのような会議を命令されるよう奏請した。首相と内大臣が一緒に天皇に拝謁を賜ったのは始めてであった。このようなことはこれまでになかった」と述べている。そして天皇は全閣僚、枢府議長および最高戦争指導会議の全員に午前10時半に参内するように命じた。それに先立ち10時20分天皇杉山元・畑俊六・永野修身の三元帥を召致し、「皇室の安泰は敵側に於て確約しあり…大丈夫なり」と述べ、回答受諾について「元帥も協力せよ」と命令した。天皇自身が召集する御前会議は午前11時50分頃から宮中の防空壕で開催され降伏が決定されます。

>④戦争に負けた日本が得たものは何ですか?

太平洋戦争の開戦によって、国家神道による戦争遂行のための国民強化は、ますますファナティックな様相を呈した。1945年7月26日のポツダム宣言発表に際しても、政府指導者たには「国体の護符」の条件にこだわり続けたことが、ソ連の参戦と原爆投下を招く結果となったことは言うまでもない。
占領軍進駐後の二ヶ月の報告書に「民主主義にいたっては、日本人民には未だかつてどのような形式にしろ、その経験がない」と記載れている。これは、国民の臣民的な政治意識の何もののせいでもあるまい。しかし、終戦にいたるまで、言論の弾圧や思想の統制の狂暴な嵐があまりにもながくつづいたために、わが国人の民主主絵義的傾向は文字どおり仮死の状態にまで立ちいたっていたことを思えば、しかたがないことである。

超然内閣

憲法ができ、帝国議会が行われると、薩長政府は、超然内閣を宣言して、天皇の任命の元に内閣を作ります。これはあくまでも、名目であって、実際は元老の推薦により、決められますが、常に内閣は議会と対立していた。ところが、明治27年2月、朝鮮のコブ郡の郡守の横暴から農民の氾濫が発生し、出動した政府軍と戦闘を戦いぬき、5月31日には全羅道全域に派生します。恐れをなした政府は清国に軍隊の出兵を要請したことを日本が知ることになり、1894年(明治27年)5月15日第6回帝国議会が行われた最中に即刻議会を解散して6月2日の閣議で出兵を決定します。
日清戦争がはじまることで、それまで藩閥政府に反発していた民党の態度は百八十度変わります。伊藤博文板垣退助を1896年に内務大臣として入閣させ、衆議院の第一党である自由党と提携して連立内閣を成立させた。伊藤博文内閣は、軍備の拡張を図るために地租の増徴を行おうとした。これに自由党と進歩党が猛反対し、両党は合同して憲政党を樹立する。これが日本初めての政党内閣である大隈重信内閣が成立する。しかし、憲政党内部で対立が起こって、この政党内閣はわずか4ヶ月で退陣する。

アメリカ国民は団結して一つになった。

ルーズベルト真珠湾攻撃の直後、アメリカ国民に対して、日本に対する報復を宣言した。このときの演説で、建国以来初めて、アメリカ国民は団結して一つになった。
アメリカはもともと、自己主張の強いヨーロッパ人がやってきてつくった国である。ヨーロッパ人が指摘することだが、アメリカ人はヨーロッパ人よりもさらに自己主張が強い。何事についても意見の食い違いが激しく、自分の主張を曲げない。独立戦争のとき、隣り合って住んでいる一方が独立派、もう一方がイギリスの国王派に分かれて小銃を撃ち合ったという記録がある。メキシコとの戦争、南北戦争第一次世界大戦への参戦、すべての戦争で国民が対立し合った。だが第二次世界大戦への参戦については、アメリカ国民のほとんどが一致して参戦に賛成した。

ちなみに、1939年、太平洋戦争が始まるわずか2年前でも、ガソリンと鉄鋼はアメリカから購入していた。同年、アメリカは3000万バレルの石油を売ったが、これは日本が消費する石油の93パーセントに当たる。日本はガソリンの90パーセントをアメリカから輸入しながら、石油製品の貯蔵に力を入れていた。
日本海軍の艦艇はアメリカから買った石油燃料で動き、航空部隊はアメリカのハイオクタンガソリンで動いていた。1940年、そして41年になっても、アメリカは日本に石油を売りつづけた。

構造汚職の体質

朝鮮戦争北朝鮮の南進によりはじまった。一時期に韓国が滅亡的な状況になるがアメリカなどの国連軍の後押しもあって北緯38度線で休戦となる。日本経済は朝鮮特需により景気が回復する。1950年代半ば頃には国民所得第二次世界大戦前の水準に回復した。
終戦直後焼け野原だった日本を世界有数の経済大国に変えた大きな要因として,戦後の占領政策は東西の冷戦の激化に備えアメリカは日本をアジアの安定勢力、反共の防波堤にしようとことが上げられる。また朝鮮戦争の特需もある。それ以上の要因として日本人の過労死に耐えながらの勤勉さも忘れてはならない。
そもそも国民のカネの垂れ流しの始まりは戦後の国家資金の政界財の奪いあいからで、朝鮮特需より、経済再建が推進され、団結力によって強靭な生命力を維持した官僚機構は、そのすぐれた法律知識と行政能力を駆使して、占領政治の急転換に巧みに対応し、それに乗じて中枢に根を降ろして構造汚職の体質を作った。今日まで続いて膨大な赤字を作ったのはこの構造汚職の体制あるは体質からくる。